ブログ「地球生活」は、「地球生活NEO」として生まれ変わりました。

地球生活NEO
http://neoearthlife.com


ブログリニューアルのお知らせ

数年間、ブログ「地球生活」を細々と更新してまいりましたが、
このたび思い切ってリニューアルすることにしました。

リニューアルと言っても、このブログはこのままの状態で、
別に新しいブログを開設しました。


地球生活NEO
http://neoearthlife.com


当ブログ「地球生活」はこのまま残しておきますので、
ストックされてる記事は今までどおり読むことはできますが、
今回の記事を最後に更新をストップする予定です。

今後の記事更新は、新ブログ「地球生活NEO」で継続していきます。


というわけで、これからもよろしくお願いします。
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ポジティブな意識と睡眠の関係

特にこれといった原因があるわけでもないのになぜかネガティブになりやすい日があって、
自分がネガティブだということには気づいていながらも、
なかなかその思考や感情が止まないことがあります。

最近、日常生活で自分の意識、思考や感情を観察する中で、
私はそんな状態を何度か経験したのですが、それには一見原因がないように見えて、
ほとんどの場合、実は毎回同じ原因があるということに何となく気づいていました。


その原因とは、疲れや睡眠不足です。


ここ最近の私の場合、ネガティブな思考や感情になりやすい日は
必ずと言っていいほど疲れがたまっているような、睡眠が足りていないような状態でした。

そんな時は睡眠時間をたっぷりとってみると、翌朝には前日の意識状態がウソのように
頭も心もスッキリしていることが多いです。


これは私に限ったことかもしれないと思っていましたが、
たまたま本日のYahooニュースにこんな記事が載っていました。


睡眠不足続くと情緒不安定=脳機能低下、うつ病など類似―精神神経センター

1日約8時間睡眠を5日間続けた後と、約4時間半を5日間続けた後で
モニターに男女の恐怖の表情や幸せな表情などの画像を見せて、
脳の血流の変化を比較するという実験。

その結果、睡眠不足の場合は恐怖の表情を見たときに、
情動と記憶を担う「扁桃(へんとう)体」と呼ばれる脳の部位が過剰に活動。

その状態は、うつ病などの患者と似ていたそうです。



現実は自分の意識が創り出しているということを考えると、
ポジティブな意識でいることは非常に重要なことになってくるわけですが、
そのためにはまずしっかりと寝ることが何よりも大事なことなのかもしれません。

ちなみに、良質な睡眠を得られる時間帯は22時〜2時と言われています。
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里山再生と炭焼きという持続可能な循環型産業

私は現在、炭焼きの仕事をしています。

といっても自分でやっているわけではなく、
会社組織で製炭からインターネットでの直販、商品開発などを手掛けている炭焼き師のもとで
働かせてもらっています。

炭焼きのことなど数か月前には私の頭の中にはひとかけらもありませんでしたが、
人にすすめられて突然興味を持ち、今の仕事を始めるまでほんの2週間くらいの出来事でした。

どの土地でやろうか、炭の種類は何がいいかといったことなど考える間もなく
とんとん拍子で事が運び、今に至ります。

もちろん自分の意志ですが、あまりにも急展開だったので、
導きに身をゆだねていたらここに流れついた、と言った方がしっくりくる感じです。


こんな感じで流れのままに突然炭焼きをすることになったとはいえ、
もちろん炭焼きという仕事に魅力を感じた点がいくつかあります。


ひとつは、炭が持つさまざまな効果。


高度経済成長期、化石燃料の登場によって
それまで燃料の主役だった炭は一般家庭から姿を消して行きましたが、
近年、自然志向が高まる中で、燃料以外の用途で炭が見直されています。

炭にはこんな効果があるようです。(ネット調べ)

・水、空気の浄化
・湿度調整
・防腐
・磁気調整
・マイナスイオン
・遠赤外線

お風呂に入れたり、ご飯を炊く時に入れたり、
実際に生活の中で炭を利用している人は少なくないのではないでしょうか。

また、炭を畑にまくと土が活性化されて農作物がおいしくなったり、
収量が増えたりするそうです。

このように、利用価値が高く万能な炭を生産することは、
何一つ間違った行為ではないという確信を私は持つことが出来ています。


炭焼きの魅力。もう一つは、「山」との関わりです。


私は、「海」と「山」どっちが好きと聞かれれば、
何の迷いもなく「山!」と即答するほど、私にとって、「山」や「森」、「木」には
言葉ではうまく言い表すことのできない特別な思いが以前からあります。

あえて言葉にすると、それは思考を超えた、心の奥深くで静かに、しかし強烈に感じる気持ちです。

いつのころからか、私の中には「山」と関わりのある暮らしが
理想のイメージとして定着していました。


炭焼きの仕事というと、いつも炭窯の前で作業している風景をイメージしがちですが、
実際には山での原木の調達が多くの時間を占めます。

「山」に入り、「木」に触れる日々の中で、
私はしばしばその「心の奥深くで感じる気持ち」に気づき、
私のフィールドが「山」で間違いないことを再認識しています。


ところで、人によっては、炭をつくるために必要な原木の伐採が
自然破壊になるのではと懸念されるかもしれません。

しかし、その心配は無用です。

それどころか、逆に原木の伐採は山林の活性化につながると言われています。

環境問題に少しでも関心のある方であれば、
「里山再生」という言葉をどこかで見聞きしたことがあるかと思います。


実はこの「里山再生」こそが、私が炭焼きという仕事に興味を持った大きな理由でもあります。


「里山」と聞くと、田畑が広がる土地に古民家があり、その家の裏には裏山があるような
のどかな風景をイメージされる方も多いでしょう。

しかし、実際のところ、「里山」という言葉が具体的に何を意味するのか
知っている人はどれくらいいるのでしょうか。

化石燃料が全盛となる一昔前は、山から薪や柴を取ってきて
炊事や風呂焚きなど日々の燃料にしたり、木を切り出して炭を焼いたり、
落ち葉を集めて肥料にしたり、山菜や木の実を採ったりというように、
生活に必要なさまざまな恵みを受けながら、人は自然と密接な関係を築いていました。

つまり「里山」とは、街など人が住むエリアと自然界のちょうど中間に位置する、
人間の影響を受けて環境が形成された田畑や山などの自然のことを言います。


里山の特徴は、「人間の影響を受けて環境が形成された」という点です。

別の言い方をすれば、里山は人の手が加わり続けることで維持されてきた、
人と共存する自然であり、人の暮らしと多様な自然の見事な調和です。

さらに、里山のもっとも注目すべき点は、
資源を枯渇させることのない「持続可能」で「循環型」の
人の暮らし、自然環境が成立しているところだと私は思うのです。


話を炭焼きに戻します。

私が手伝わせてもらっている炭焼きの原木は、
ドングリの木として知られるクヌギを利用していますが、
クヌギは伐採しても切り株からまた新しい芽(ひこばえ)が生えてきて再生します。

クヌギ以外にも薪炭材として利用されてきた日本の雑木林の樹種は
基本的に再生能力が高いそうです。

炭には7〜8年くらいたったクヌギの木が主に使われるので、
順次その年数のローテーションで再生と伐採を繰り返すことができます。


つまり、炭焼きという仕事は、一昔前の里山では当たり前に行われていたような、
人と自然が共存した持続可能な循環型の産業と言えるのだと思います。

そして、燃料革命や生活スタイルの変化にともなって放棄されて荒廃した現代の里山に、
経済に結び付いた形で定期的に人の手が入ることによってふたたび以前の生態系を取り戻し、
生物多様性の保全にもつながるのではないかと私は考えています。


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2012年12月21日の翌日に起きた私の覚醒体験

新年、あけましておめでとうございます。

人類は滅びることなく、無事に2013年がはじまりました(笑
かなり不定期な更新ですが、今年もこのブログをよろしくお願いします。


さて、去る2012年12月21日の冬至。

この日は古代マヤ暦最後の日ということで、ちまたでは人類の滅亡が噂されたりもしていましたが、
スピリチュアルに関心のある人にとっては、かねてよりささやかれていた
次元上昇を意味する“アセンション”の日として注目していた人も少なくないと思います。

みなさんはどこでどんな一日を過ごされましたでしょうか?


私も頭の片隅にはありましたが、特に意識はしていませんでした。

その日私は朝から仕事に出かけ、夜は急きょ仕事先でいただき物の猪肉の焼肉をすることになり、
お酒も入って、日付が変わった夜遅くに床に着きました。

その日は結局、取り立てて何か特別な変化があったわけでもなく一日が終わりました。


しかし、その翌日、私はあるちょっとした体験をしたのです。


翌日22日土曜日はたまたま仕事が休みだったので、
暇がなくなかなか読めないでいた読みかけの本を読もうと思っていましたが、
朝の瞑想のあと、それとは違うこれまた読みかけになっていた瞑想の本を何となく手に取りました。

個人的なことですが、11月に新しい環境での生活が始まり、
めまぐるしく忙しい毎日だったこともあって、
それまで続けていた瞑想もやらない日が続き、心にもあまりゆとりがなくなっていたので、
無理にでも早起きして、なんとか朝だけでも瞑想を再開しました。

一週間くらいはなかなか感を取り戻せませんでしたが、
以前のようにはいかないまでも、次第に集中し、
心もそれなりに静まってくるようになってきたこともあって、
ふと、また瞑想の本を読みたくなったのかもしれません。

その本は、私を鎌倉一法庵の接心に誘ってくれたKくんが薦めてくれた
呼吸による癒し」というヴィパッサナー瞑想に関する本で、
私の瞑想での経験や気づきと同様のことがとてもわかりやすく書かれていて、
私の瞑想のバイブル、というのが数ヶ月前に途中まで読んだときの印象でした。

22日のその日、途中からまたパラパラと読みはじめてみると、
実感をともなった理解で、いつの間にかその内容に以前にも増してどんどん引き込まれ、
読み進めていくうちに私はその本から、まったく予想もしていなかった
あるとてつもなく深い気づきを得ました。

そして、その気づきを引き金に突然、私の意識にある大きな変化が起きたのです。


その気づきとは、思考や心の状態を自分自身だと思いこみ、
私がこれまでの人生で作り上げ、必要に応じて作り変え、
そして一生懸命守り続けてきた自己という存在。

それはすべて幻想だったということ。


こうして文字にすると、精神世界関連のどこの本にも書いてありそうで、
その分野に関心のある人なら一度は目にし、耳にしたことがあることかもしれません。

私はこれまでの瞑想体験で、仏教で言うところの「空」と思われる何もない空っぽの意識を
現在に対する完全な気づきの中で何度か自覚したことがあります。

(参照記事:鎌倉一法庵での気づき−本当の瞑想とは

たしかにその時は、思考や心の動きはまったくなく、心の中は空っぽで、
あるのはただ感受のみなので、自分自身だと思っていたものはどこにも見当たらず、
それが幻想だと思えたときがありました。

しかし、その時と今回の気づきが大きく違うのは、
「思考や心の状態が自分ではない」という点です。

細かい話になりますが、「空」を自覚している時に、
自分自身だと思っていたものが幻想だということには気づけていたものの、
「思考や心の状態が自分ではない」という気づきには至っていませんでした。

また、これまで幾度となく平静な心の状態で体の感覚や思考を観察してきましたが、
それらはすべて観察対象ではあるものの、「自分ではない」という認識はとても薄かったです。

つまり、これまでの私は、何を自己としているかを問題としていなかったようです。


感受や感情や思考は、空に現れては消える雲と同様、
それはコントロールできるものではなく自然に発生、消滅を繰り返す
無常の性質をもってただそこに起こっているだけの一つの現象に過ぎず、
それらを自己と同一化する必要はまったくない。

私は本を読みながら、思いがけず知恵の輪をはずせた時のような
かなりの衝撃とともにこの気づきを得ました。


そして、次の瞬間、ある意識の変化を体験したのです。


それは、自己からの解放です。


それまで自己と思っていたものは幻想で、単なる無常の連続にすぎないということは、
春に芽吹き、冬に枯れ落ちる木の葉のように、自然界に刻一刻と生成、消滅しているあらゆる現象、
そして、自分以外のすべての人間と何一つ差も隔たりもなく、
すべてが等価値ということに気がついた時、自己の枠は完全になくなり、
突然、目の前の現実との一体化が起こりました。

自己と思っていたものも含め、目の前に起こっているすべての現象と
意識が一体となっている感覚です。


実は私は以前にも同じような感覚を、「わの舞」で経験したことがありました。

(参照記事:「わの舞」を体験

わの舞には何度か参加したことがありますが、
それを経験したのははじめて参加した時の1回だけです。

わの舞を踊っている時に意識が輪の全体と一体となり、
同時に自己という意識がどうでもよくなっていき、急速に薄くなっていく感覚でした。

何の前触れもなくあまりに突然の出来事だったので、その時は理屈はよくわかりませんでしたが、
かなりの解放感があったのはよく覚えています。


自己という枠がなくなる感覚は、何とも言えない強烈な解放感です。


自己という幻想がどれだけ意識を縛り、自分がどれだけそれを守ろうと躍起になっていたのか。

それがはっきりとわかります。


結局、すべての苦しみの原因は、幻想である自己に対しての執着なのです。


自己に対して執着があるのは、それが他の現象よりも価値のあるものだと思い込んでいるからで、
それが幻想ですべての現象と等価値ということに気がつけば、
何の努力もいらず自然と執着がなくなります。

そして同時に、自己を守るために全力で活動しているエゴもその役目を終えるようです。


私は今回そのすべてを一瞬にして体験し、完全な自己からの解放を自覚したと思っていますが、
現在このブログを書いている時点では、ふたたび自己の枠の中に舞い戻ってしまっています。


今回の意識変革は、わの舞の時と同様、一瞬あるいは数秒の出来事でした。

現在はそれを体験しているというより、記憶を頼りに頭で理解しているという感じです。

しかし、完全に元通りに戻ってしまったのかと言うとそういうわけでもなく、
今回の出来事をきっかけに、自己に対する執着は格段に少なくなったような気がするし、
日常での思考の観察が以前より容易になりました。

また、一日を通して今現在にいられる時間が増えました。


さて、このブログに書いたことは、実際に私が体験したこと、
それによって得た気づきを忠実に、出来るだけ自分の言葉で書くことを心がけましたが、
それらは、「呼吸による癒し」(ラリー・ローゼンバーグ著)に助けられている部分が大きいので、
同じような表現になってしまっているところもあるかもしれません。

最後に、この本から少し引用します。



ブッダはその教えを要約するように求められたとき、およそこのように答えました

いかなる状況においても何物をも私だとか私のものとして執着してはならない、と。



今回の体験が、アセンションの日と噂されていた2012年12月21日の翌日に起こったのは
単なる偶然なのか、あるいは何か関連があるのかわかるのはまだ先のことかもしれません。

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鎌倉一法庵での気づき−本当の瞑想とは

山下良道さんが主催する鎌倉一法庵の5日間の接心に
6月、7月、そしてつい先日の9月と3回参加させていただきました。

一法庵の接心で良道さんのお話や参加者との質疑応答などを聞き、瞑想をするなかで、
自分の瞑想が今どのような状態なのか、実際のところ瞑想とは何なのか、といったことが
自分なりにある程度つかめてきた感じがしています。

それについて書く前に、まず私が一法庵の接心に参加することになった経緯から。


私が瞑想をはじめたのは2年半ほど前、
ゴエンカさんのヴィパッサナー瞑想コースにはじめて参加したのがきっかけです。
(参照記事:ヴィパッサナー瞑想体験 10日間コース@京都

その後は期間が空きましたが、今年(2012年)の年越しのコースから5月までの間に
生徒で3回、サーブで3回と集中して10日間コースに参加してきました。
(参照記事:ヴィパッサナー瞑想 奉仕と生徒の1ヶ月@千葉
(参照記事:ヴィパッサナー奉仕(サーブ)の魅力

その甲斐あってそれなりに集中力もつき、
自分なりにそこそこ満足できる瞑想ができている時間も増えてきました。


ところが、5月に京都で参加した生徒として4回目のコースで私は、
ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想にちょっとした行き詰まりを感じてしまったのです。

そのコースでは個人的に、思考やイメージを徹底的に排除すること、微細な感覚の探求、
感覚を感じたらすぐに意識を動かすことに専念していました。

私の経験では体の感覚は、凝固感や圧迫感、痛み、かゆみなどの荒削りなわかりやすい感覚の場合、
思考やイメージが出てきていても気づいていることができますが、
微細な感覚になればなるほど本当に心が静かな状態で、より客観的に観察しないと
なかなか感じとることができません。

すでにそこにある微細な感覚を心を静めて感じとる様子は、
例えて言うなら、息を凝らして耳を澄ましてやっと聞きとることができる、
どこからか聞こえるとても小さな音を聞きとるような感じに似ています。

その時のコースで私は、思考にもイメージにも眠気にも邪魔されず、切り裂くような集中力で
1時間のほとんどの時間を静寂に包まれた完全に平静な状態でいることがしばしばありました。

しかしある時、しばらくの間微細な感覚の上をすべるように快適に意識を動かせていた場所が、
いつの間にか意識の移動がそれまでのようにスムーズにいかなくなっていて、
うまく行っていた時のことを思い出しながら
なんとか意識をスムーズに動かそうとしている自分に気がつきました。

そして同時に、雑念が現れることもなく完全に平静な状態だと思っていた心の中に
いつの間にか渇望と執着と嫌悪がすでに幅をきかせていることに気づいたのです。

意識をスムーズに動かせなくなっていたのは、
その場所に凝固した感覚が現れてきていたからだったのですが、
そのことにしばらく気が付かず、記憶に残るすべるような意識の移動に執着し、
それを渇望し、意識をスムーズに動かせないことを嫌悪し、ストレスを感じていました。

私はこのとき、あることを悟りました。

それは、常に完璧な平静さで感覚を繰り返し観察し続けるというのは
もしかしたら不可能に近いのではないか、ということです。

完全に平静であるためには、完全に感覚がアニッチャであることを理解し、
何度同じ場所を観察しても毎回その場所をはじめて観察するつもりで、
さらにその感覚に対して何の心の反応も起こさないことが必要です。

電子顕微鏡の最高倍率でのぞくくらい厳しく、そしてくまなく丁寧に心の状態を見るなら、
前回その場所を観察したときの記憶がある以上、同じ場所を再度観察したとき、
気づかないレベルでは渇望や執着や嫌悪のいずれか、
場合によってはすべての感情が生まれてしまっているような気がしたのです。

この“気づかないレベルで”というところが非常にやっかいです。

ゴエンカさんは、感覚を完璧な平静さで観察することで浄化が起こると言っている一方で、
渇望や執着や嫌悪の心で感覚を観察する場合、
浄化どころか逆にサンカーラを増やすとも言っています。

私の経験では、渇望や執着や嫌悪はかなり巧妙で、まるでパンに生えるカビのように
いつの間にか心の中に芽生えていることが多々あります。

それがどういうことかというと、つまり浄化していると思ってやっていた瞑想でも、
気がつかないうちにサンカーラを増やしている場合があるということになるのです。


さて、ちょっと長くなりましたが、聖なる沈黙が解けた10日目の夜に
上に書いたような話を瞑想ホールで席がとなりで、同室でもあったKくんと話していたとき、
山下良道さんと一法庵の接心を紹介してくれたのです。

ゴエンカ式では他の瞑想をすることを認められていないし、
私はゴエンカ式のヴィパッサナーにどっぷり漬かって慣れ親しんでいたので、
興味を持ちながらも違う瞑想法をすることに少なからず抵抗がありました。

しかし、ちょうど行き詰まりを感じたこのコースが終わる日に
隣席で同室だったKくんに紹介されるといういかにも仕組まれたようなお手配、
私が関東方面に戻ろうとぼんやりと思っていた時期と6月の一法庵の接心が
ちょうど同じくらいのタイミングだったこと。

他にも私の足を一法庵に向けさせるサインがいくつかあり、
結果的にごく自然な流れで鎌倉一法庵の6月の接心に導かれたというわけです。


良道さんが言葉を変えながらも一貫して言っているのが、thinking mind からの解放、
そして青空を体験すること。

青空は、慈悲の部屋、空なる部屋、第3の部屋などいろいろ別の言い方がありますが、
すべて同じ場所(同じ意識状態)のことを指しています。

thinking mind からの解放は、要するに過去や未来に意識が飛ばされることがなく、
「今」に気づいていて、思考やイメージと同一化していない、曇りなき心の状態のことです。


接心最初の2日くらいはゴエンカ式のヴィパッサナーが頭から離れず、
良道さんの話や瞑想法とどうしても比較してしまい、葛藤や混乱で心がスッキリしませんでしたが、
ゴエンカ式をひとまず忘れ、まったく別の瞑想法をやっていると考えることにしました。

気持ちを切り替えて瞑想に集中できるようになると間もなく、
私は、自分の心が thinking mind から解放されていることを自覚したのですが、
実はゴエンカさんのところですでにその状態は経験していたことを思い出しました。

ゴエンカさんの10日間コースの最初の3日間のアーナパーナのとき、
思考やイメージ、眠気を排除するという作業を意を決して徹底的にストイックにやったときに、
とてもクリアな、完全に静寂に包まれた、安らぎに満ちた心の状態を
短時間ではあったけど経験し、自覚したことがありました。

ただ、ヴィパッサナーでは、とても集中して体の感覚を観察しているとき、
特に微細な感覚を観察している時などは先にも書いたように長時間にわたって、
思考もイメージもわき上がってこない静がな心の状態でいることが出来てはいたのですが、
そこでやることは、心が平静かどうかのチェックと
体の感覚を頭からつま先まで順番にひたすら観察し続けるという2点に尽きるので、
thinking mind から解放された状態の心をあえて意識したことがありませんでした。

なので一法庵の接心ではじめてまじまじとそこにフォーカスした時、
最初は thinking mind が落ちた世界をはじめて体験したように錯覚しましたが、
思い返せばただそこにフォーカスしたことがなかっただけで
実は私にとっては以前から経験し、知っていた世界だったのです。

ゴエンカ式ヴィパッサナーをやっている人の中には
すでに thinking mind から解放された状態で体の感覚を観察している人はたくさんいると思います。

しかし、ただそれを「平静さ」としてしか認識せず、
その状態にありながらも、ただひたすらに体の感覚の観察のみに徹するというのは、
非常にもったいないような気がしてしまいます。

平静な状態、つまり thinking mind から解放された心の状態、あるいは近い状態にあるとき、
これは私の個人的な好みの問題かもしれませんが、耳から聞こえてくる音、
とくに虫の鳴き声や鳥の声、風や雨の音など自然界の音に意識をフォーカスすると
集中した状態を維持しやすくなり、「今」にあり続けることが比較的容易になるように感じます。

また、thinking mind から解放された心の状態が
仏教で言うところの「空」だと良道さんは仰っていますが、
私の場合、特に意識を可能なかぎり五感すべてにフォーカスして「今」にあり続ける瞑想をしていると
たしかに「空」という言葉がぴったりくることが実感できます。

思考やイメージが止まっている意識は、何もなく空っぽです。

その何もなくどこまでも広がるとても静かな空っぽの意識の中に、
ただ五感によって立ち現われてくる感受のみがあるのです。

ただ虫の鳴き声があり、ただ鳥のさえずりがあり、ただ呼吸があり、ただ体の感覚がある。

目を開ければただ目の前に色と形、光と影がある。それらはただ起こっているのです。

自分だと思っていたものは幻想で実は何もなく、
自分とは感受そのものなんだということが実感できた瞬間がありました。

これらのことは、ゴエンカ式ヴィパッサナーに忠実に、
ただひたすらに体の感覚のみに意識をフォーカスしていたときは気がつかなかったことです。

こう書くと、人によってはゴエンカ式を批判しているように感じる人もいるかもしれませんが、
もちろん私はそんなつもりはなく、あくまでも中立的な立場で、
自分が経験し感じたことを忠実に書いているだけです。


さて、私の経験では、thinking mind から解放された世界にも
微妙に心の状態に差があるような気がしているのですが、それを書き出してみます。

1.思考やイメージは現れていないけど監視が必要で、思考したがっている意識を強引に押さえつけているようなどこか不安定な状態。(厳密にはこれは thinking mind から解放されているとは言えないと思う)

2.意識がとてもクリアで明晰。思考やイメージが現れてくる気配がなく監視する必要がないとても安定した状態。

3.意識がとてもクリアで明晰。思考やイメージが現れてくる気配がなく監視する必要がないとても安定した状態で、さらに喜びと安らぎと充実感に満たされている。


はじめての一法庵の接心で、thinking mind から解放された状態であることを自覚したとき、
私は2や3の状態だったのですが、ここで一つ問題だったのは、
良道さんが「慈悲の部屋」と表現をされる場所にいるはずなのに
その肝心の慈悲を感じることができないでいたのです。

その時の良道さんの説明では、thinking mind が落ちた世界=慈悲の部屋、
つまり、thinking mind が落ちれば慈悲は自然と出てくるということでした。

しかし私の場合、thinking mind が落ちていることは完全に自覚しているのに、
ただ慈悲だけがないという状態だったので、自分のいる場所がどこなのか混乱しました。

なぜ慈悲を感じられないのか、thinking mind から解放されたクリアな意識の状態で
心の中を丁寧に観察してみたところ、正体不明のどこかスッキリとしない
ネガティブな感情が残っていることに気づきました。

そのネガティブな感情が本来出てくるはずの慈悲にふたをしてしまっているような気がして、
その感情が何によって引き起こされているのか丁寧に探索してみたところ、
いわゆるペインボディ、自分で自分を攻撃している部分、自分の受け入れられない部分、
自分を愛せていない部分だったことがわかりました。

私はその意識できたペインボディを認めて、無条件で受け入れ、
その部分を慰めるというか、そこに愛を、慈悲を与えてみようと試みると、
まるで油田を掘り当てたかのように、胸の奥のどこかから愛が、慈悲がとめどなく湧き出てきたのです。

そして、自分がその慈悲によって癒され、ネガティブな感情がなくなると、
他人への慈悲もごく自然とあふれ出てきました。

この経験からわかったことは、慈悲とネガティブな感情は共存できないということです。

心にネガティブな感情が少しでもあるときは慈悲は出てこないし、
逆に、心が慈悲で満たされているときはたとえネガティブな感情を故意に起こそうとしてもできません。

思考やイメージから解放されて「今」に気づいているのに、慈悲がピンとこないときは、
心にネガティブな感情がないか丁寧に観察してみることも一つの解決策のようです。


いろいろと書きましたが、最後にもう一つ。

thinking mind から解放されたクリアな意識の状態、
いわゆる「空」や「慈悲の部屋」に入ってからが本当の瞑想だと良道さんはおっしゃっていますが、
私もこれまで書いたような経験を通してそれを実感しています。

逆を言うと、目を閉じて黙って静かに座っていても、
思考やイメージ、眠気に支配されているならばそれは瞑想とは言えないのだと思います。


瞑想中は今にあるので、本当の意味で瞑想ができている時間が増えれば、今にある時間が増えます。

今にあるときはエゴの影響の外にいるので、エゴにエサを与えることはなく、
瞑想をして今にある時間が増えることで、自然とエゴの力が弱くなっていくのです。

これが瞑想の一つの効果だと私は思っています。
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