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鎌倉一法庵での気づき−本当の瞑想とは

山下良道さんが主催する鎌倉一法庵の5日間の接心に
6月、7月、そしてつい先日の9月と3回参加させていただきました。

一法庵の接心で良道さんのお話や参加者との質疑応答などを聞き、瞑想をするなかで、
自分の瞑想が今どのような状態なのか、実際のところ瞑想とは何なのか、といったことが
自分なりにある程度つかめてきた感じがしています。

それについて書く前に、まず私が一法庵の接心に参加することになった経緯から。


私が瞑想をはじめたのは2年半ほど前、
ゴエンカさんのヴィパッサナー瞑想コースにはじめて参加したのがきっかけです。
(参照記事:ヴィパッサナー瞑想体験 10日間コース@京都

その後は期間が空きましたが、今年(2012年)の年越しのコースから5月までの間に
生徒で3回、サーブで3回と集中して10日間コースに参加してきました。
(参照記事:ヴィパッサナー瞑想 奉仕と生徒の1ヶ月@千葉
(参照記事:ヴィパッサナー奉仕(サーブ)の魅力

その甲斐あってそれなりに集中力もつき、
自分なりにそこそこ満足できる瞑想ができている時間も増えてきました。


ところが、5月に京都で参加した生徒として4回目のコースで私は、
ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想にちょっとした行き詰まりを感じてしまったのです。

そのコースでは個人的に、思考やイメージを徹底的に排除すること、微細な感覚の探求、
感覚を感じたらすぐに意識を動かすことに専念していました。

私の経験では体の感覚は、凝固感や圧迫感、痛み、かゆみなどの荒削りなわかりやすい感覚の場合、
思考やイメージが出てきていても気づいていることができますが、
微細な感覚になればなるほど本当に心が静かな状態で、より客観的に観察しないと
なかなか感じとることができません。

すでにそこにある微細な感覚を心を静めて感じとる様子は、
例えて言うなら、息を凝らして耳を澄ましてやっと聞きとることができる、
どこからか聞こえるとても小さな音を聞きとるような感じに似ています。

その時のコースで私は、思考にもイメージにも眠気にも邪魔されず、切り裂くような集中力で
1時間のほとんどの時間を静寂に包まれた完全に平静な状態でいることがしばしばありました。

しかしある時、しばらくの間微細な感覚の上をすべるように快適に意識を動かせていた場所が、
いつの間にか意識の移動がそれまでのようにスムーズにいかなくなっていて、
うまく行っていた時のことを思い出しながら
なんとか意識をスムーズに動かそうとしている自分に気がつきました。

そして同時に、雑念が現れることもなく完全に平静な状態だと思っていた心の中に
いつの間にか渇望と執着と嫌悪がすでに幅をきかせていることに気づいたのです。

意識をスムーズに動かせなくなっていたのは、
その場所に凝固した感覚が現れてきていたからだったのですが、
そのことにしばらく気が付かず、記憶に残るすべるような意識の移動に執着し、
それを渇望し、意識をスムーズに動かせないことを嫌悪し、ストレスを感じていました。

私はこのとき、あることを悟りました。

それは、常に完璧な平静さで感覚を繰り返し観察し続けるというのは
もしかしたら不可能に近いのではないか、ということです。

完全に平静であるためには、完全に感覚がアニッチャであることを理解し、
何度同じ場所を観察しても毎回その場所をはじめて観察するつもりで、
さらにその感覚に対して何の心の反応も起こさないことが必要です。

電子顕微鏡の最高倍率でのぞくくらい厳しく、そしてくまなく丁寧に心の状態を見るなら、
前回その場所を観察したときの記憶がある以上、同じ場所を再度観察したとき、
気づかないレベルでは渇望や執着や嫌悪のいずれか、
場合によってはすべての感情が生まれてしまっているような気がしたのです。

この“気づかないレベルで”というところが非常にやっかいです。

ゴエンカさんは、感覚を完璧な平静さで観察することで浄化が起こると言っている一方で、
渇望や執着や嫌悪の心で感覚を観察する場合、
浄化どころか逆にサンカーラを増やすとも言っています。

私の経験では、渇望や執着や嫌悪はかなり巧妙で、まるでパンに生えるカビのように
いつの間にか心の中に芽生えていることが多々あります。

それがどういうことかというと、つまり浄化していると思ってやっていた瞑想でも、
気がつかないうちにサンカーラを増やしている場合があるということになるのです。


さて、ちょっと長くなりましたが、聖なる沈黙が解けた10日目の夜に
上に書いたような話を瞑想ホールで席がとなりで、同室でもあったKくんと話していたとき、
山下良道さんと一法庵の接心を紹介してくれたのです。

ゴエンカ式では他の瞑想をすることを認められていないし、
私はゴエンカ式のヴィパッサナーにどっぷり漬かって慣れ親しんでいたので、
興味を持ちながらも違う瞑想法をすることに少なからず抵抗がありました。

しかし、ちょうど行き詰まりを感じたこのコースが終わる日に
隣席で同室だったKくんに紹介されるといういかにも仕組まれたようなお手配、
私が関東方面に戻ろうとぼんやりと思っていた時期と6月の一法庵の接心が
ちょうど同じくらいのタイミングだったこと。

他にも私の足を一法庵に向けさせるサインがいくつかあり、
結果的にごく自然な流れで鎌倉一法庵の6月の接心に導かれたというわけです。


良道さんが言葉を変えながらも一貫して言っているのが、thinking mind からの解放、
そして青空を体験すること。

青空は、慈悲の部屋、空なる部屋、第3の部屋などいろいろ別の言い方がありますが、
すべて同じ場所(同じ意識状態)のことを指しています。

thinking mind からの解放は、要するに過去や未来に意識が飛ばされることがなく、
「今」に気づいていて、思考やイメージと同一化していない、曇りなき心の状態のことです。


接心最初の2日くらいはゴエンカ式のヴィパッサナーが頭から離れず、
良道さんの話や瞑想法とどうしても比較してしまい、葛藤や混乱で心がスッキリしませんでしたが、
ゴエンカ式をひとまず忘れ、まったく別の瞑想法をやっていると考えることにしました。

気持ちを切り替えて瞑想に集中できるようになると間もなく、
私は、自分の心が thinking mind から解放されていることを自覚したのですが、
実はゴエンカさんのところですでにその状態は経験していたことを思い出しました。

ゴエンカさんの10日間コースの最初の3日間のアーナパーナのとき、
思考やイメージ、眠気を排除するという作業を意を決して徹底的にストイックにやったときに、
とてもクリアな、完全に静寂に包まれた、安らぎに満ちた心の状態を
短時間ではあったけど経験し、自覚したことがありました。

ただ、ヴィパッサナーでは、とても集中して体の感覚を観察しているとき、
特に微細な感覚を観察している時などは先にも書いたように長時間にわたって、
思考もイメージもわき上がってこない静がな心の状態でいることが出来てはいたのですが、
そこでやることは、心が平静かどうかのチェックと
体の感覚を頭からつま先まで順番にひたすら観察し続けるという2点に尽きるので、
thinking mind から解放された状態の心をあえて意識したことがありませんでした。

なので一法庵の接心ではじめてまじまじとそこにフォーカスした時、
最初は thinking mind が落ちた世界をはじめて体験したように錯覚しましたが、
思い返せばただそこにフォーカスしたことがなかっただけで
実は私にとっては以前から経験し、知っていた世界だったのです。

ゴエンカ式ヴィパッサナーをやっている人の中には
すでに thinking mind から解放された状態で体の感覚を観察している人はたくさんいると思います。

しかし、ただそれを「平静さ」としてしか認識せず、
その状態にありながらも、ただひたすらに体の感覚の観察のみに徹するというのは、
非常にもったいないような気がしてしまいます。

平静な状態、つまり thinking mind から解放された心の状態、あるいは近い状態にあるとき、
これは私の個人的な好みの問題かもしれませんが、耳から聞こえてくる音、
とくに虫の鳴き声や鳥の声、風や雨の音など自然界の音に意識をフォーカスすると
集中した状態を維持しやすくなり、「今」にあり続けることが比較的容易になるように感じます。

また、thinking mind から解放された心の状態が
仏教で言うところの「空」だと良道さんは仰っていますが、
私の場合、特に意識を可能なかぎり五感すべてにフォーカスして「今」にあり続ける瞑想をしていると
たしかに「空」という言葉がぴったりくることが実感できます。

思考やイメージが止まっている意識は、何もなく空っぽです。

その何もなくどこまでも広がるとても静かな空っぽの意識の中に、
ただ五感によって立ち現われてくる感受のみがあるのです。

ただ虫の鳴き声があり、ただ鳥のさえずりがあり、ただ呼吸があり、ただ体の感覚がある。

目を開ければただ目の前に色と形、光と影がある。それらはただ起こっているのです。

自分だと思っていたものは幻想で実は何もなく、
自分とは感受そのものなんだということが実感できた瞬間がありました。

これらのことは、ゴエンカ式ヴィパッサナーに忠実に、
ただひたすらに体の感覚のみに意識をフォーカスしていたときは気がつかなかったことです。

こう書くと、人によってはゴエンカ式を批判しているように感じる人もいるかもしれませんが、
もちろん私はそんなつもりはなく、あくまでも中立的な立場で、
自分が経験し感じたことを忠実に書いているだけです。


さて、私の経験では、thinking mind から解放された世界にも
微妙に心の状態に差があるような気がしているのですが、それを書き出してみます。

1.思考やイメージは現れていないけど監視が必要で、思考したがっている意識を強引に押さえつけているようなどこか不安定な状態。(厳密にはこれは thinking mind から解放されているとは言えないと思う)

2.意識がとてもクリアで明晰。思考やイメージが現れてくる気配がなく監視する必要がないとても安定した状態。

3.意識がとてもクリアで明晰。思考やイメージが現れてくる気配がなく監視する必要がないとても安定した状態で、さらに喜びと安らぎと充実感に満たされている。


はじめての一法庵の接心で、thinking mind から解放された状態であることを自覚したとき、
私は2や3の状態だったのですが、ここで一つ問題だったのは、
良道さんが「慈悲の部屋」と表現をされる場所にいるはずなのに
その肝心の慈悲を感じることができないでいたのです。

その時の良道さんの説明では、thinking mind が落ちた世界=慈悲の部屋、
つまり、thinking mind が落ちれば慈悲は自然と出てくるということでした。

しかし私の場合、thinking mind が落ちていることは完全に自覚しているのに、
ただ慈悲だけがないという状態だったので、自分のいる場所がどこなのか混乱しました。

なぜ慈悲を感じられないのか、thinking mind から解放されたクリアな意識の状態で
心の中を丁寧に観察してみたところ、正体不明のどこかスッキリとしない
ネガティブな感情が残っていることに気づきました。

そのネガティブな感情が本来出てくるはずの慈悲にふたをしてしまっているような気がして、
その感情が何によって引き起こされているのか丁寧に探索してみたところ、
いわゆるペインボディ、自分で自分を攻撃している部分、自分の受け入れられない部分、
自分を愛せていない部分だったことがわかりました。

私はその意識できたペインボディを認めて、無条件で受け入れ、
その部分を慰めるというか、そこに愛を、慈悲を与えてみようと試みると、
まるで油田を掘り当てたかのように、胸の奥のどこかから愛が、慈悲がとめどなく湧き出てきたのです。

そして、自分がその慈悲によって癒され、ネガティブな感情がなくなると、
他人への慈悲もごく自然とあふれ出てきました。

この経験からわかったことは、慈悲とネガティブな感情は共存できないということです。

心にネガティブな感情が少しでもあるときは慈悲は出てこないし、
逆に、心が慈悲で満たされているときはたとえネガティブな感情を故意に起こそうとしてもできません。

思考やイメージから解放されて「今」に気づいているのに、慈悲がピンとこないときは、
心にネガティブな感情がないか丁寧に観察してみることも一つの解決策のようです。


いろいろと書きましたが、最後にもう一つ。

thinking mind から解放されたクリアな意識の状態、
いわゆる「空」や「慈悲の部屋」に入ってからが本当の瞑想だと良道さんはおっしゃっていますが、
私もこれまで書いたような経験を通してそれを実感しています。

逆を言うと、目を閉じて黙って静かに座っていても、
思考やイメージ、眠気に支配されているならばそれは瞑想とは言えないのだと思います。


瞑想中は今にあるので、本当の意味で瞑想ができている時間が増えれば、今にある時間が増えます。

今にあるときはエゴの影響の外にいるので、エゴにエサを与えることはなく、
瞑想をして今にある時間が増えることで、自然とエゴの力が弱くなっていくのです。

これが瞑想の一つの効果だと私は思っています。



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ヴィパッサナー奉仕(サーブ)の魅力

ヴィパッサナー10日間コース(千葉)に、また奉仕で参加してきました。

年越しのコース以来、2回目の奉仕です。

前回のコースでは、はじめての奉仕でいきなりコースマネージャーをやることになりました。

その時の記事はこちら。
ヴィパッサナー瞑想 奉仕と生徒の1ヶ月@千葉


今回こそはキッチンスタッフの一員として参加するものと思っていましたが、
なんと今回もその予想に反し、当日割り当てられた役職はキッチンマネージャー。

要するに、キッチンの司令塔です。

はじめての奉仕でいきなりのコースマネージャーも面喰いましたが、
2回目とはいえキッチン未経験で作業内容もほとんどわからない私が司令塔に任命されるとは、
神様もなかなかのスパルタです。

幸い、奉仕ベテランの方が前半パートタイムで入ってくれていたので、
その間にキッチン作業のいろは、キッチンマネージャーのコツなどを教えていただき、
後半も何も問題なくスムーズに作業を進めることができました。


料理好きの人にとってはキッチンワークそのものが楽しいかもしれませんが、
私が感じたキッチン奉仕の醍醐味、それは、共同作業という点です。


私は精神性の向上、魂の成長に最適な教材は「人間関係」だと思っています。

ここ数年、住み込みの季節労働や集団生活をいくつか経験してきましたが、
そこに行く動機の一つは、この「人間関係」にあります。


私にとって、ヴィパッサナー奉仕も同様で、特にキッチンでの作業では人間関係が付きものです。

10日間の中では、多かれ少なかれ他の奉仕者、あるいは生徒さんのさまざまな言動に出会い、
それと同時にさまざまな自分自信と対面する機会があります。

平静でない自分、嫌悪感を抱いている自分など、
さまざまな場面でそのことにわずかでも反応している自分自身にいかに気づき、
平静さをもって観察できるか。

ゴエンカ氏が言うところの、「奉仕は自分自信の修行でもある」とは
まさにこの点を言うのではないでしょうか。

気づき、観察するという本来の意味でのヴィパッサナーを
日常生活の中で実践するトレーニングの場としても奉仕は最適です。


奉仕をするとヴィパッサナーをまた違った面から体験できる、とゴエンカ氏は話しますが、
実際に奉仕をするとそれを実感することができると思います。

今回、キッチン奉仕者としての作業をしながら1日3回のグループ瞑想をする中で感じたことは、
瞑想は平静さと集中力を養う一方で、キッチンでの奉仕は
平静さを培うのはもちろん、調和を学ぶ場所として最適だということ。

最初はばらばらだった奉仕者それぞれの意識が、
互いに尊重し、思いやり、気づかい、そしてそれを感じ合いながら作業をしていく中で、
調和が生まれ、次第に一つになっていくという素晴らしい時間を体験できました。

特に、今回私は、調和を保ちながら、作業を先導して行くことが仕事の大半ともいえる
キッチンマネージャーという立場だったこともあって
全体の意識を敏感に感じ取ることができたような気がします。


私個人的には自分の新たな一面に気づかせてもらい、
一緒にサーブした方たちには本当に感謝しています。


コースマネージャーをやったときも本当に楽しい10日間でしたが、
もしかしたらキッチンマネージャーはそれ以上に楽しく、充実していたかも知れません。

今回のキッチンマネージャーとしての経験は
これから先の自分の人生に大きな実りをもたらしてくれるような気がしています。


冒頭で、神様はスパルタだと書いてしまいましたが、毎回終わってみれば、
人生の最適なタイミングで、自分の成長に最適な経験をさせてくれることに感謝せざるを得ません。

もしかすると、10日間コースのサーブがそういう場所なのかも知れませんね。




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ヴィパッサナー瞑想 奉仕と生徒の1ヶ月@千葉

昨年(2011年)の暮れから、年明けて今年(2012年)の1月後半までの約1ヶ月間、
千葉にあるヴィパッサナー瞑想センター(ダンマディッチャ)に滞在してきました。

京都の瞑想センター(ダンマバーヌ)で
ヴィパッサナー瞑想の10日間コースにはじめて参加した時のことは以前このブログで書きました。

ヴィパッサナー瞑想体験10日間コース@京都


この時の体験が衝撃的で、自分的には満足した感があったので、
コース終了後しばらくは、また自分がコースに参加することになるとは思いもしませんでしたが、
その後、千葉でも10日間コースが定期的に開催されていることを知り、
私は実家が埼玉ということもあり、そのうち気が向いたら行ってみようかなと、
やりたいこと、行きたい場所の選択肢の一つとして考えるようになっていました。

そして今回、それが実現したというわけです。


10日間コースにふたたび参加した理由は他にもいくつかあり、
本格的に考え始めたのは昨年、ニセコでヨガウィークに参加している時に、
京都での瞑想の日々が懐かしさとともに頭の中によみがえってきて、
やっぱり自分はこういう規則正しくストイックなリトリートが好きだということを再認識し、
また行きたいな、とぼんやり思ったのがきっかけです。


そしてもうひとつ。

今年【2012年】は、かねてからスピリチュアル、ニューエイジの世界では何かと話題とされ、
最近では映画やマスコミの影響で、そういう分野に興味のない人たちの間でも
いろいろな噂が飛び交う特別な年として広く知られるようになりました。

そんな【2012年】という年を出来るだけ浄化され、清められた心身で迎えたい。

そんな思いがあり、今回このタイミングで参加したというわけです。


また、どうせならヴィパッサナー漬けになってみるのも面白いかもしれないと考え、
一回は奉仕として、もう一回は生徒として、
10日間コースに2回連続で参加してみることにしました。


まず、年末から正月にかけての年越しのコースを奉仕で参加。

以前、京都でコース終了後に残って庭仕事や、
次のコースのための準備をするコース間の奉仕をしましたが、
10日間コースの奉仕は今回がはじめてでした。

当然のごとく、キッチンで作業をするものとばかり思っていたのですが、
当日割り振られた役職は、なんとコースマネージャー。

男性奉仕者で10日間フルで参加できるのは私含め2名で、
もう一人は外国人だったので必然的に私がコースマネージャーをやることになりました。

私はコースマネージャーは何度も奉仕の経験を積んだ人がやるものだと思っていたので、
まだ10日間コースを生徒として一回経験しただけで、
しかも奉仕もはじめての私にコースマネージャーが務まるのか正直不安でしたが、
幸い奉仕者の中にはベテランの方も数人いたので助かりました。

奉仕者マニュアルには目を通したものの、
千葉のセンターもはじめてで何がどこにあるのかもいまいちまだ把握できていない状態で、
生徒さんの受付を開始。

その後、イントロダクションもなんとか無事に終わり、コースがスタートしました。


コースマネージャーは基本的に生徒さんとAT(アシスタントティーチャー)とのパイプ役。

コース中、生徒さんから何か要望や相談事があればそれをATに伝え、
それについてのATの返答を生徒さんに伝えたり、
逆に何かATの指示があれば、該当する生徒さんに声をかけたりというのが主な仕事。

そして、センターではおなじみの、
ホールへの集合を呼び掛ける鐘を鳴らすのも私の仕事でした。
(鳴らし忘れたことも・・・)

また、キッチンでは生徒さんの食事中にご飯の残りの量をチェックしに行ったり、
食事の時間が終われば、食堂の片づけを手伝ったりもします。

ちなみに、奉仕者は1日3食、夕食も食べることができます。

あとは一日のほとんどの時間を生徒さんと一緒にホールで座ります。


生徒さんは最初の3日半がアーナパーナ、4日目からヴィパサナに入ります。

奉仕者はその指示に関係なく初日からヴィパサナをやることができますが、
私は久しぶりの瞑想だったので、アーナパーナからはじめました。


10日間コースに参加する人のなかには、コースが終わり、その特殊な環境から解放されると、
それまで敏感に感じ取れていた身体の感覚が弱くなったと感じる人もいると思います。

私も同様で、はじめて参加した前回のコースが終わったあと、
奉仕しながらセンターに残り、1日3回のグループ瞑想を数日続けましたが、
コース中のような精神の鋭さや、敏感な感覚が明らかに薄れているように感じました。

はじめてコースに参加した人や、古い生徒でも普段座る習慣がない人などは、
この日常とかけ離れた10日間コースの特殊な環境の中でしかヴィパッサナーの経験がありません。

したがって、その環境から離れてしまうと集中力が鈍り、感覚が薄れたと感じるのかもしれません。

つまりそれは、日常の生活(1日3食や会話など)の中での瞑想に慣れていないということです。


コースマネージャーは人と話したり、日常業務をこなしながら、
毎日10時間以上生徒さんと一緒に座ります。

普段座る習慣のなかった私にとって、これはとても新鮮でした。


作業の時間と瞑想の時間の切り替えがうまくできないうちはあまり集中できず、
作業のことが気になってしまったり、雑念に飛ばされることも多かったですが、
次第に自分のリズムがつかめてくると、集中できる時間も増えてきました。

作業と瞑想。

これを毎日繰り返していると、日常と瞑想の切り替えに自然と慣れてくるようです。


これは、今回奉仕としてコースに参加したことで得た大きな収穫の一つです。

このことをある古い生徒さんに話したところ、
私の他にも奉仕を経験した数人から同じような話を聞いたことがあると言ってました。


コースマネージャーに限らず、キッチンの奉仕者も
1日3回のグループ瞑想はホールで座るので、作業と瞑想の繰り返しを体験します。


日常生活の中で瞑想することに慣れるきっかけとして、奉仕はおすすめです。


そしてもうひとつ、奉仕を経験したことで見えてきたことがあります。

ATや奉仕者にはそれぞれの役割がありますが、すべての仕事に共通しているのが、
常に生徒さんが瞑想に専念できる環境づくりを第一に考えているという点です。


私はコースマネージャーでしたので、
生徒さんからいろいろな要望や相談が持ちかけられることがあります。

その場合、私自信でも対処できることもありますが、たいていはATに報告し、指示を仰ぎます。

足が痛い生徒には椅子を、
腰が痛い生徒には座椅子を、
母国語が日本語でも英語でもない生徒には母国語の講話を、
体調を崩してしまった生徒には薬を、
風邪の予防を一人の生徒が提案したときは
マスクやうがい用の塩水、全員に専用のコップを即座に用意するなど、

他にもあげればいろいろありますが、
生徒さんの要望には可能な限り応えるという姿勢を感じました。


また、あるときATが食事をあまり召し上がっていないことがあり、
キッチンの奉仕者が心配してATにそのことについて尋ねたとき、

「私のことは気にしなくていいから、あなたたちは生徒さんのことだけ気にかけていなさい」

と仰っていたのがとても印象的でした。


今回奉仕をして、コースの裏側、運営側を見て思ったのは、
これだけの人がいろいろなことをやってくれているお陰で生徒はコースに参加できるということ。

そのことを頭では理解していたつもりでしたが、
実際に奉仕をしてみて体験を通して実感することができました。

これはコース中に限ったことではなく、
コースとコースの間の期間にも作業をしてくれている方たちがいて、
生徒が少しでもセンターで快適に過ごせるようにいろいろ工夫しながら、
少しずつセンターの設備の充実を図っています。

私は自分が生徒として、前回京都で10日間コースにはじめて参加したときのことを思い出し、
感謝の気持ちでいっぱいになりました。


また、今回のコースはセンターで年を越し、正月を迎えたわけですが、
生徒さんにしても奉仕者にしてもそんなことは関係なく、
年越しも正月もあまり意識することもなく過ぎ去ってしまうのだろうと思っていたところ、
古い生徒さんでおもちをダーナ(寄付)してくれた方がいて、
生徒さんはもちろん奉仕者も全員、元日の朝食にお雑煮を食べることができ、
お陰でつかの間の正月気分を味わうことが出来ました。

本当に感謝です。ありがとうございました。

あとで聞いた話によると、そのお雑煮に感動して涙した生徒さんもいらしたそうです。


奉仕は、また違った角度からヴィパッサナーを体験できるとゴエンカ氏は言います。

今回の経験で、その意味が少しだけわかったような気がしました。

10日の間にはいろいろなことがありましたが、
全体を通して楽しく、とても充実していたというのが正直な感想です。



さて、続いて次のコース、2012年最初の10日間コースは生徒として参加。

当初はそのまま次のコースまで奉仕をしながら、センターに滞在するつもりでいましたが、
前のコースの8日目くらいから風邪をひいてしまい、
コース終了日の午後、大事を取って一回外へ出ることにしました。

その甲斐あって数日で回復し、Day0(コース初日)の前日にセンターに戻り、
翌日は朝からコースの準備に参加することが出来ました。


Day0の作業はこんな感じです。

生徒さんの宿泊棟の布団、名札セッティング。
テントの中のセッティング(テントを使う予定があれば)。
トイレ、シャワー室、洗面台などの清掃。
コース受付のセッティング。
瞑想ホールのセッティング。

などです。

これに並行してキッチンでは当日の夕食、翌日の朝食、昼食の準備を行います。

また、昼過ぎと夕方には最寄りのバス停に生徒さんを迎えに行く仕事もあります。


この日は私がその送迎担当でしたが、昼過ぎの便で来る生徒さんを迎えに行った時、
バスから降りてきた数人の中に知っている顔があり、びっくりしました。

昨年、ニセコのヨガウィークで一緒だったTさんでした。

ヴィパッサナーの10日間コースでは予想外の再会の話をよく聞きますが、
まさにそれを体験した瞬間でした。


Tさんとはホールで座る席もとなり同士だったりして、何かの縁を感じました。


縁といえば、このコースのコースマネージャーは、
なんと私がはじめて京都でコースに参加した時のコースマネージャーと同じ人でした。

私は生徒としてはこれが2回目のコースでしたので、
2回とも同じコースマネージャーということになります。

これも縁を感じますね。


また、今回センターですごした約1ヶ月の間に、たぶん実際には会ったことがないのに、
「この人どこかで見たことあるな〜」とか、「なんかこの人知ってるな〜」と思う人が
何人もいたのがとても不思議で印象的でしたが、なんと驚くべきことに、
夜の講話の中にそれについての説明がしっかりと用意されていました。


講話のその部分を要約すると・・・

コースの参加者の中にはどこかで会ったことがあるような気がする人がいますが、
それは過去世においても共に瞑想の修行に励んでいたことがあるから。

ということです。

なるほど。なんか納得してしまいます。


今回のコースは男性が10名くらいで、女性が20名くらい。

京都に比べると千葉は少人数です。


さて、こんな環境で参加した生徒として2回目のヴィパッサナー瞑想10日間コース。

最初の3日間はアーナパーナです。

これまでのコース参加の体験を通して、
アーナパーナは眠気と雑念との闘いという印象がありました。

今回もやはり最初のうちはその印象どおりという感じでした。

私は瞑想中に眠くなるのは脳が睡眠時と近い周波数になるからだと勝手に解釈し、
だから眠くなってしまうのは仕方のないことだと都合よく考えていました。

ところが夜の講話の中で、「眠気は心の拒否反応の現れ」と言っていたのを聞き、
それなら克服できるはずだと思い、アーナパーナをやりながら、
眠気が来たときは同時に眠気を観察することにしました。

絶対に意識を保ち続けると強く決意し瞑想していると
眠気で意識が遠のいてきても、あと1秒くらいで意識がなくなるという瀬戸際で気がつくことも増え、
そのたびに強い呼吸をするように心がけました。

すると、それまでの眠気がウソのように頭が冴えわたり、
かなりクリアな意識の中でアーナパーナに専念することもできました。

集中力が高まるにつれて呼吸は浅く、空気の出入りも極めて少なくなり、何もかもが静かな状態。

その時の静けさは何とも言えない心地良さがありました。

静けさに包まれているような、もっとも安全な場所のような、そんな感じです。

集中力の度合いを言葉で説明することは難しいですが、
今までの瞑想経験の中でもっとも静かで、集中した状態を経験しました。


新しい生徒だけでなく、なぜ古い生徒も最初の3日半をアーナパーナに費やすかというと、
さらに洗練されて、研ぎ澄まされた集中力を養うためで、
それはそのあとの、ヴィパッサナーに大きく影響してくるとゴエンカ氏は言います。


ヴィパッサナー瞑想をする上でもっとも大切なことは、いかに平静でいられるかです。

私はこれを理解しているつもりでいたのですが、
このコースで私はまだまだ感覚に振り回されているということを強く思い知らされました。


京都で参加したはじめてのコースや、コースマネージャーとして参加した直前のコースでは、
いわゆる流れるような感覚を感じることもあり、
また、このコースでは、わりと集中してアーナパーナに専念できたので、
4日目以降ヴィパッサナーをはじめたら、こんどはどんな経験が待っているのか、
正直なところ期待を大きく膨らませていたのです。

ところが、その期待を裏切るように、ヴィパッサナーをはじめて数日、
何も感覚を感じられない部分が結構あるという状態でした。

感覚がなかった部分に感覚を感じるようになったことはあっても、
感覚を感じていた部分の感覚がなくなるという経験ははじめてだったこともあり、
自分では平静さを保っているつもりでしたが、
思うように感覚を感じられない部分を観察するたびにストレスを感じ始めていました。


この時私は感覚を渇望し、感覚に執着し、感覚のない部分を嫌悪していたのは明らかでした。


そして、5日目の午前中。

いつの間にか私の心は苛立ちはじめ、瞑想中の何か些細なことでも
その苛立ちが増幅して行くのを感じていました。

平静でいることを努めようとしましたが、その感情はなかなか鎮まろうとはせず、
次第に私の心の中では、ヴィパッサナーを、ホールでじっと座っていることを、
そしてこのコースに参加していることすべてをやめてしまいたい気持ちが、
今にも破裂しそうなほどに膨れ上がっていました。

ホールの外に出て大声で叫んだり、力尽きるまで全力疾走をしたり、
とにかく体中に蓄積された得体のしれない不快な何かを発散したい強い衝動にかられながらも、
私は立ち上がらず瞑想を続けました。

しかし、黙って座っていることはなんとか出来たものの、
そのうちヴィパッサナーをすることがまったく出来なくなってしまいました。

感覚を感じる、感じない以前に、意識を動かすことすら出来なくなってしまったのです。

完全に脳がオーバーヒートし、活動を停止。

私の言うことを聞いてくれない、そんな印象でした。


仕方がないので何もせずただ座っていると、まもなくお昼の鐘が鳴ってくれました。


私はすぐにホールの外に出て、椅子に腰かけしばらく放心状態。

いつもはゆっくり落ち着いて食べていた食事も、
この時は少し興奮気味にガツガツと勢いよく食べました。


昼食後も何かを発散したい気持ちは変わらず、全身が自然を求めている感じがしたので、
私はサマーベッドを持ち出し、あまり人の来ない雑木林に近い方で日光浴をすることにしました。

ちょうど天気もよく穏やかな日だったので、全身で太陽を浴びているととても気持ちよく、
少しずつ心が落ち着いて行くのを感じながら眠りに落ちました。

この自然の中での昼寝でだいぶ回復し、午後はなんとかヴィパッサナーを再会することができました。


コース後半になると、全身に感覚を感じるようにはなったものの、
それはすべてサンカーラと思われる、いわゆる凝固した荒削りな感覚のオンパレード。

この時は痛みを感じることが多く、その中には刃物で切りつけられたような、
一瞬息がとまるほどの強烈な痛みもありました。


今回2回続けてコースに参加した目的は冒頭でも書いたように、心身の浄化です。

だから、それがいくら強い痛みだとしても
サンカーラの感覚はどんどん出てきてもらいたいくらいだったので好都合でした。


ただ、聖なる沈黙が解かれた最終日、昼食後にゆっくりとシャワーを浴びたら、
全身からサンカーラの感覚にがんじがらめにされていた疲れがどっと出て、
一気に脱力状態になり、しばらく頭がぼーっとしてました。

サンカーラの感覚は、コース最後の瞑想でも消えることはありませんでした。

まだまだ根が深そうです。



感覚があろうとなかろうと、心地よかろうと不快だろうとそれは問題ではなく、
重要なのはその感覚をいかに平静な心で観察するか。

ゴエンカ氏がしつこくこの言葉を繰り返すのは、
それだけ人の心が感覚に振り回されやすいということだと思います。


「修行の連続性が成功の鍵」という言葉を食堂にある掲示板で目にしますが、
今回のコースに参加したことでその意味がわかったような気がしています。


晴れの日も雨の日も、暑い日でも寒い日でも、疲れていても元気でも、
ただ淡々と日々ヴィパッサナーを繰り返し、そのつど様々な感覚と対面する中で
真の平静さは培われていくのだと思います。


はじめてコースに参加した人の多くが、一度体験しただけで終わってしまうのではないでしょうか。

時間が許すなら、ぜひふたたび参加してみることをおすすめします。

私は、一回目では気が付かなかった、ヴィパッサナーの奥深さを知ることができました。



やっぱりヴィパッサナーはすごい。

本物です。


今回をきっかけに、少し本気で取り組んでみようと思っています。


ヴィパッサナー参考書
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法



さて、コース終了後は、年越しのコースの奉仕で一緒だった
鴨川のCさんのお宅におじゃますることになりました。

私はここ数年、腰を落ち着けて生活をはじめられる場所を探しつつ、
日本全国行ったり来たりしていろいろ見てまわっています。

千葉も南房総など移住者が多い地域があるのは知っていましたが、
興味がありながらも縁がなく、なかなか行く機会がなかったので
もしかしたら千葉のセンターに行けば何かきっかけができるかもしれない、
と考えて奉仕をしたところもありました。

だから、奉仕で田舎暮らしの達人であるCさんと知り合い、コース終了後に鴨川に行くというのは、
私にとってはうまく出来すぎた流れでした。


鴨川ではいろいろな見どころに連れて行ってもらったりして、
Cさんにはとても親切にしていただきました。

鴨川滞在中は毎日朝晩グループ瞑想を欠かさず行い、
他にも同じコースに参加していた数人が一緒だったので
自然とヴィパッサナーに関する話題が多くなり、
おかげでここでもまたヴィパッサナーの理解が深まりました。

Cさんの知り合いの家や施設などでもグループ瞑想をする機会があり、
いろいろな場所で座ることに慣れることができたのも大きな収穫です。

Cさん、いろいろとありがとうございました。

そのうちまた遊びに行きま〜す。



約1ヶ月のセンター滞在で、ダンマディッチャを中心となって運営している
ベテラン奉仕者の方々とも顔見知りになり、
センターは私にとってとても身近な場所になりました。

生徒あるいは奉仕で、これからちょくちょく訪れたいと思っています。




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カルマ・ヨガ 〜日常に隠された魂進化の最短ルート〜

ヨガというとアーサナ(ポーズ)や瞑想などを思い浮かべる人が多いと思いますが、
カルマヨガとは、ひとことで言うと「日常の行為」そのものです。

人間は、他人の評価や、行動の結果得ることが出来る何かが日々の行動の動機になりがちです。

たとえば、自分の足元にゴミが落ちていたのを見つけた場合、
周りに人がいるときはすすんでゴミを拾ったとしても、もし誰も見ていなかったらどうするか。


自分の行動の動機がはっきり見える場面だと思います。


ひとことで「日常の行為」といっても、
カルマヨガはこれをやったら何かもらえる、誰かが良い評価してくれるならやろう、
といった期待からは完全に独立した行為です。

目の前にあること、日々の行動一つ一つにただ最善を尽くす。

これが、カルマヨガです。


私がカルマヨガを知ったのは、このブログのサイドバーでも紹介している
あるヨギの自叙伝」や「黎明」を読んだことがきっかけだったと思います。

では、このカルマヨガと魂の進化とはどういう関係があるのか。

ちょっと長くなりますが、「黎明」より抜粋して引用させていただきます。

--------------------------------------------------------------

『霊的な問題に関心を持ち始めた人は、聖地と呼ばれる場所を尋ねたり、適切もしくは無謀な行法を試みたり、世間から離れて山に籠ったり、本物かどうかはさておいて、縁のあった指導者(グル)に入門したりすることが解脱への近道と考えがちです。勿論このような選択からもそれなりに得るものはありますが、大切なことは、その人の進化にとって必要かつ充分な状況は、既に目の前に与えられているのだと言う事実に気がつくことなのです。』

『誰でも自分の周囲を見渡してみると、自分にとっては日常的な、しかし少しずつ変化している環境があります。それは平凡なものであるかも知れませんし、波乱に満ちたものであるかも知れませんが、現に今、その場所とその仕事、そしてその人間関係の中に自分が存在していると言う事実は、魂が自分の進化のために設定した課題を学ぶために、最も相応しい環境を現象化しているのだと言うことを理解していただきたいと思います。』

『その人の進化にとっての最短距離は、自分の周囲に起ってくる出来事のひとつひとつをきちんとやっていくことに在るのであって、他に何か特別なものを探したからといって、近道ができるわけではないのです。』

『行為には必ず反作用が伴いますから、ものに接する際の心の状態はもちろん自分自身に対しても作用しているわけです。従って掃除ひとつでも嫌々ながらやっていると、却って自分の心を汚していることになりますし、丁寧に心を込めて行えば、その時に注ぐ愛の深さに比例して、同時に自分の心も掃除することになるのです。つまり一つ一つの行為は、それが何であろうと、愛を以て確実に行うと言うことが自分自身の意識の進化に正確に反映してくるわけで、このような日常の行為(カルマ)によって意識を向上させ、その究極においては、宇宙そのものの創造活動と一体化する方法をカルマ・ヨガと読んでいます。カルマ・ヨガは誰にでもできるものであり、他の様々な行法が持っている難しさや危険が皆無である上に、行為そのものが直接世界への奉仕に繋がるものですから、読者の皆様にはぜひお勧めしたいと思います。』

『全ての行法の究極は宇宙との一体化にありますが、宇宙が常にあらゆる波動領域に現象世界を想像している以上、その瞬間における宇宙としての自分自身の役割を、神の愛に因って完全に表現することが、真の意味での宇宙との一体化(ヨガ)に成るわけで、ここにカルマ・ヨガの目的と意義があります。』

『唯一地上に肉体を持っている人間だけが、このような形での奉仕が可能であり、具体的な仕事を通して、例えば家を建てたり、農作業をしたり、サーヴィス業に従事したりすることによって、仲間やお客さん、作っているものや周囲の環境等にエネルギーを伝えていくことができるのです。世の中の多くの人達は、このような日常の仕事を、外側から強いられた「やらなければならない日課」として処理することが多いのですが、それが内なる衝動から生じる喜びに満ちた行為に成ったとき、仕事は大いなる愛そのものの表現と成り、行う人の意識を高めて解脱に導く確実な伴侶と成るのです。ここで仕事の種類が何であるかは全く関係がなく、ただその人が(意識する、しないに拘わらず)その瞬間における自分の役割を素直に表現できるかどうかが鍵になります。』

--------------------------------------------------------------
黎明<下巻>第22章 日常の生活 より引用


引用した文章を読んでいただければ、私が言うことは何もなくなってしまうのですが、
私自身カルマヨガを知ってから、毎日の生活で出来るかぎり意識するように心がけています。

すべての行為にカルマヨガを意識するのはなかなか難しいのが現実ですが、
実践できていると自分で思えるときは、不思議ととても幸せで、
楽しく、嬉しく、やさしい気持ちになり、まったく疲れ知らずで、
それどころか逆にどんどん元気になってくることが実感できます。


ちなみに、この「黎明」。

私のバイブルとも言える本なのですが、ぜひとも一読をおすすめします。


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ヨガ合宿 in ニセコ

1ヶ月ちょっと一緒に生活させてもらったニセコの自給自足コミュニティでは、
ちょうど私がお邪魔していた9月から10月にかけて、週末にヨガ合宿を開催していました。

講師はインドのアシュラムで何年も修行を積んできた経歴の持ち主。

このコミュニティの主、こうちゃんです。



一日のスケジュールはこんな感じ。これを2日間みっちり行います。


========= TimeSchedule =========

5:00     起床
5:30〜 6:30 プラナヤマ、バンダ、瞑想
6:45〜 8:45 ハタヨガ
9:00〜10:20 朝食準備、朝食
10:30〜11:30 休憩
11:30〜12:30 カルマヨガ
12:45〜14:30 1日目:講義、2日目:トーキングサークル
14:40〜16:10 ハタヨガ
16:20〜17:20 プラナヤマ、バンダ、瞑想
17:30〜19:00 夕飯準備、風呂
19:00〜20:00 フードサークル(夕飯)
20:10〜21:10 バジャン
21:30     寝床

==============================


これはインドのシバナンダアシュラムで行われているプログラムとほぼ同じだそうです。

プログラムの内容についての詳細はこちら
http://toyako.net/yoga/regdays.html



ヨガと聞いてまず思い浮かぶのはアーサナだと思いますが、
ここでのハタヨガは、準備運動として足上げやスーリヤナマスカール(太陽礼拝)をやったあと、
シヴァナンダ流の12の基本ポーズをゆっくりと時間をかけてやりました。


1、三点倒立(シルシアサナ) 2、肩立ちのポーズ(サルヴァンガアサナ)
3、鋤のポーズ(ハラアサナ)/ 橋のポーズ(セツバンダサナ)
4、魚のポーズ(マツヤアサナ) 5、前屈(パスチモタナサナ)
6、コブラのポーズ(ヴァジュランガサナ) 7、バッタのポーズ(サラバサナ)
8、弓のポーズ(ダヌラサナ) 9、身体をひねるポーズ(アルダマッチェンドラサナ)
10、からすのポーズ(カカアサナ) 11、立ち前屈(パダハスタサナ)
12、三角形のポーズ(トリコナサナ)


最初のうちはいろんなところに余計な力が入っていたりして、
正直しんどい気持ちの方が強かったですが、回数を重ねるうちに余計な力も抜け
どのポーズもある程度形になってきて楽しんで出来るようになりました。

ハタヨガをやってると、左は柔らかいけど右が硬いとか、
左右対称に姿勢をキープしているつもりでも少しずれていたりとか、
どこが伸びてないとか、どこをもっと伸ばしたいとか、
自分の身体の状態がだんだんと見えてきて楽しいです。

さらに私の場合、普段柔軟をやっているので前屈系はまあまあいいのですが、
後屈系や背筋を使うポーズはまだまだです。


各ポーズの間とすべてのポーズが終わったあとは、
シャバアサナ(足と腕を開いて仰向けに寝る)でリラ〜ックス。。

ちなみに、シャバアサナのとき、
「リ〜ラ〜〜ックスしてくださ〜〜い。リ〜〜ラ〜〜〜、リ〜〜ラ〜〜〜・・・」
と言っている講師のこうちゃんの声。とてもリラックスできます♪


ハタヨガのほかに、プラナヤマ(呼吸法)、バンダ(気のコントロール)、瞑想、
テキストを使った講義などもあります。



そしてさらに、カルマヨガの時間もあります。

カルマヨガとは、無私の行動。行動のヨガのことです。
何も期待せずただ目の前にある当たり前のことを当たり前にやるというヨガです。

カルマヨガの時間は掃除をやったり、
ちょうど畑の作物が実っていた時期でもあったので収穫作業などもやりました。



食事は玄米菜食で、自分が出来ることをそれぞれが協力して作ります。

朝からチャパティを焼いたり、夜は蒸し野菜や野菜カレーなどを食べました。




居候していた期間中、この1泊2日のヨガ合宿に3回参加する機会に恵まれました。


ちなみに私のヨガ歴は、インドを旅していたときに泊っていたゲストハウスの屋上で、
そこのオーナーが朝夕1時間くらい教えていたところに数日参加した程度。


ほとんど経験なしに等しいです。


インドは数回旅したことがあるものの、
なぜかその時はあまりヨガには興味が持てなかったのですが、
昨年あたりから趣味で柔軟をやるようになってから、
今さらながらヨガをやってみたいと思うようになっていました。


今回、居候している家がヨガ教室になってしまうという状況は
まったく予期していなかったことですが、私にとってはもってこいの機会でした。


実際にヨガを経験してみて、その奥深さをわかるところまではまだまだですが、
ハタヨガは、チャクラや身体の各部を刺激して気の流れをよくするといわれているように、
やる前と後ではやはり身体の感じが違うのがわかるので、
今回だけで終わりにせず、出来るかぎり今後も自分でやっていきたいと思っています。

プラナヤマやバンダなどは
いまのところはただ言われるがままにやっていただけという感じで、
プラーナを体感するところまではまだいっていませんが、
これも続けることで感覚が研ぎ澄まされて、さらに繊細になって行くと思うし、
せっかく今回教わる機会に恵まれたわけですから、
出来るかぎり継続してこの先にあるものを体験してみたいという気持ちがあります。


と、書いてはみたもののなかなか続けていくのって難しいんですよね(笑)



他を知らないのでなんとも言えませんが、ここのプログラムは
流行りのダイエットやエクササイズのヨガではなく、
ヨガの本質である精神性の向上に関心がある人にもおすすめだと思います。




ホームページではすでに来年の5日間のヨガウィークの告知がされているので、
興味がある人はのぞいてみてください。

http://toyako.net/yoga/yoga.html



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