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鞍馬山〜貴船神社@京都のパワースポット

京都に行ったら絶対にここだけは行きたいと前から思っていたのが
パワースポットとして有名な鞍馬山。

先月、ヴィパッサナー瞑想の10日間コースに参加するために京都に行ったので、
そのついでに念願の鞍馬山にも行くことができました。


鞍馬山にはいろんな伝説、逸話があるのを知っている人もいると思いますが、
鞍馬山をあまりご存じない方のためにいくつかご紹介します。

おそらく世間一般的に最も有名なのが牛若丸(源義経)伝説。

義経は幼少時代、この地で仏法、学問に励み、
鞍馬の天狗に剣術、妖術などの武芸修練を受けたなど、
鞍馬山には義経にまつわる数々の伝説、史跡が残っています。

私個人的には牛若丸伝説よりもむしろ天狗伝説の方が興味があるんですけどね。

一説によると天狗はもともと山の妖精で、長い年月をかけて脚色され、
人々の勝手なイメージによって鬼にも似た今の有名な姿になったそうです。



そして、これは意外とあまり知られていないみたいなんですが、
鞍馬山はレイキ(霊気)発祥の地。

レイキの創始者である臼井甕男という人がこの鞍馬山で21日間の断食を行い、
21日目の深夜に脳天を貫く雷のような衝撃を受けて失神し、
目覚めた時には治癒能力を得ていたそうで、それを「霊気」と名付けたんだとか。



また、鞍馬山には650万年前、
地球人類救済のために金星からサナート・クマラという宇宙神霊が
降り立った地であるという伝承があります。

このサナート・クマラという存在、
調べれば調べるほどすごいです。

サナート・クマラ詳細↓
>>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
>>スピリチュアル・ライフ←おすすめ!



さらに、鞍馬山では毎年5月の満月にウエサク祭(五月満月祭)というお祭りがあるのですが、
ヒマラヤでも5月の満月の同じ日にウエサク祭というお祭りが
何世紀にもわたって行われているそうです。



こうやっていろいろ書いてみると、
鞍馬山がとても不思議で異様な場所であることをあらためて感じます。



さて、鞍馬山の予備知識はこれくらいにして、
実際はどんなところだったのか。これからが本題です。


祝日だったということもありなるべく人が少ない時間帯に行きたいということで、
鞍馬山の麓の駐車場には朝の6時くらい着き、早朝の澄んだ空気の中、
雨上がりの参道を登り始めました。


私も一緒に行った友達も木が好きで、
存在感のある気になる木や巨木を見つけては近づいてさわったりしながら歩いたので
かなりゆっくりなペースでした。

少し遠目から見る三本の大杉がそびえ立つ由岐神社はかなりかっこよく、
雨上がりで少し霧がかかっていたので神々しくもありました。


やっぱり自分は木々に囲まれたこういう場所が好きだなあ、なんてつぶやきながら、
緑のトンネルのすき間をすり抜けて降りそそぐ朝の光の美しさと暖かさに感謝して、
木漏れ日を受けて光るまだ濡れた参道をすがすがしい気持ちで
史跡や神社一つ一つに手を合わせながら一歩一歩ゆっくりと、いざ鞍馬寺本殿へ。


石の階段を登りきり、そのまま導かれるように魔方陣のような輪の中心に立ちました。

この時はまったく何の知識もなかったので
この輪は魔方陣のような結界の一種かなんかだと思っていましたが、
今いろいろ調べてみるとこれは“鞍馬山の六芒星”といって
鞍馬山の中でもエネルギーの高い場所として有名なんだそうです。


ここで今調べたばかりの豆知識↓

六芒星は各頂点が霊的惑星と対応していて、一番上の頂点から時計回りに、
土星、木星、金星、月、水星、火星、そして中央が太陽。

六芒星という図形は上向きの三角形が能動的原理、男性的原理、陽、火などを示し、
下向きの三角形が受動的原理、女性的原理、陰、水などを示す。

六芒星自体はこの相反するものが組み合わさった図で、
調和、完全、そして大宇宙を意味するのだそうです。


以上は一般的な六芒星の説明です。


実際にはこの魔方陣のような敷石すべてに鞍馬山ならではの意味があるみたいです。

「すべては尊天にてまします」を象形化したのが、本殿前庭にある方形の敷石「金剛床」で、
中心の小さな正三角形は「三身一体尊天」を、その周りの六つの三角形を囲む内円が自己の内界を、
そして他の三角形は外界―森羅万象と日月星辰を表わします。

信樂貞雄著『すべては尊天にてまします』より


なるほど、そんなに意味のある場所だったとは知りませんでした。

その六芒星の上では私は何も感じなかったですが、
そういえば一緒に行ったエネルギーに敏感な友達が
地面からじわじわしたものを感じたと言っていました。


本殿金堂には三体の像が奉安されていて、
それぞれの像と対応して太陽、月、地球を意味する三つの色違いの円が
上方中央にぶら下がっていました。


威厳があり、とてもかっこよかったです。


鞍馬山入山の際にいただいたパンフレットから
本殿金堂の三体の像について説明している部分を引用させていただきます。

===============
尊天とは、「宇宙の大霊であり大光明、大活動体」であり、
私たち人間をはじめ万物を生かし存在させてくださる宇宙生命・宇宙エネルギーであって、
その働きは愛と光と力となって現れる。

愛を月輪の精霊―千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)、
光を太陽の精霊―毘沙門天王(びしゃもんてんのう)、
力を大地の霊王―護法魔王尊(ごほうまおうそん)のお姿であらわし、
この三身(さんじん)を一体として「尊天」と称するのである。

「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く」と祈り
「すべては尊天にてまします」とお唱えするのである。
===============

私は以前鞍馬山が出版している本、『すべては尊天にてまします』を
友達から借りて読んだことがあり、鞍馬山の信仰について多少の知識がありました。

鞍馬山は、尊天(宇宙生命、宇宙の真理)をご本尊としているところが、
私にとってはとても共感でき信用、信頼できるところです。


鞍馬山についてもう少し引用させていただきます。

===============
鞍馬山の信仰は、尊天を信じ、ひとりひとりが尊天の世界に近づき、
ついには尊天と合一するために、自分の霊性にめざめ
自分に与えられた生命を輝かせながら、明るく正しく力強く生きてゆくことにある。

宗派にも人種にも国境にもこだわることなく、
ひとりひとりの真のめざめと、共に生かされている万物の調和を祈るのである。

また「生活即信仰」を合言葉に、
「非行悪言を慎み、己を完成する。真実誠心を以って、世に尽くす人となる。
尊天より御力を戴きて、強き信念に生きる」という「信仰の三カ条」を指針とし、
このような生き方をする人が増えて、ろうそくの灯りが周囲を明るく照らすように、
世界中が明るく豊かになることを理想とする。

(中略)

宗派にこだわらぬ鞍馬山だから寺の教えを押し付けはしない。
坐禅・念仏・唱題・祝詞・ヨガ・・・各自の機根に応じ、
それぞれの信ずる方法で、自由に、尊天の霊気を受け、
一人でも多くの人が真実にめざめ力強く生きてくださればそれでよい。
===============

・・・すばらしいです。本物ですね。

私たちは本殿の中の賽銭箱の奥にある
お祈りのために少しだけ設けられている畳の上で、
しばらく瞑想させていただきました。

隣にはひたすらに般若心経を唱える数人のグループ。

すべてを受け入れる鞍馬山ならではの風景なのかもしれません。


本殿を出たあと来た道をまた少し戻り、階段途中の茶店の前で
瞑想して冷えた身体を温めつつ、しばらくそこでゆっくりしました。

太陽が高くなるにつれて人も増えてきて、
私たちも奥の院へと歩き出しました。

本殿から奥の院へと続く階段を登り始めると、
今までとは違う空気を感じました。

その時はそれが空気なのか、エネルギー的な何かなのかよくわかりませんでしたが、
何かが変わったことだけははっきりとわかりました。


確かこの辺から霊宝殿に行く道の途中だったと思うのですが、
道から少し離れた森の奥の方に一本だけかなりの巨木があり、
遠くから見ているにもかかわらずその存在感はすさまじく圧倒されるものがあり、
しばらく目を離すことができないほどでした。


奥の院へ行く途中には霊宝殿(鞍馬山博物館)があり、
ふらりと入ってみることに。

いちばん興味を引いたのは3階の仏像奉安室。

静かで緊張感のあるキリッとした空気で満たされた室内には、
木彫の毘沙門天ほか、平安時代、鎌倉時代に製作された数体の木彫の仏像が奉安されていて、
それぞれに感じる印象は違いながらも、どの像の前に立っても
まったくすごいとしか言いようのない存在感がありました。

祝日の昼間だというのに室内には私たちだけしかいない時間がしばらく続き、
瞑想好きの友達に付き合い、またまたそこで瞑想。

そろそろ行こうかというタイミングで人が増えだし騒がしくなってきました。


まるでその空間をとことん感じなさいと言われているような、
用意されたような不思議な時間帯でした。



霊宝殿を出て、また木々の生い茂る道をさらに上へと進んで行くわけですが、
歩き出して数分後、これはもう間違いなくエネルギー酔いのような、
自分が普通ではない状態になっていることに私はやっと気が付きました。

頭がボーっとして気だるいような感覚をしばらく感じてはいたのですが、
寝不足でもあったし、山道を歩いているという状況でもあったので、
なかなか気が付くまでに時間がかかってしまいましたが、
それが寝不足や単なる息切れとは質の違うものであるということは
一度気が付くとはっきりわかりました。


すでに、もっと早く気が付いてもよかったのでは?というほどの状態。


胸のあたりから頭にかけて空気ではない何か特別な気体に覆われているような感覚があり、
少し息苦しさを感じていました。


そして、しばらく続いた坂道をちょうど登りきったあたりに、
まっすぐ行くと奥の院方面、左に行くと大杉権現という分かれ道があったと思います。

そこを大杉権現の方に進み始めて間もなく、
木の根が地面を這うように伸びている木の根道にさしかかったあたり、
両側に木があってその間を通り過ぎるという感じの場所だったと思いますが、
急激にエネルギーが強くなるのをはっきりと感じました。

一緒にいた友達も同じ場所で同じことを言っていたので、
たぶん間違っていないと思います。


先へ進むうちにまた少し弱まったので、結構狭い範囲だったのかもしれません。

大杉権現のお社が見えてくると、
その少し手前に数本の太い木に囲まれているように見える場所がありました。


ああいう場所が結構エネルギー強かったりするんだよな〜、なんて思いながら
その脇を通り過ぎ、とりあえず大杉権現をお参り。

大杉権現は石の柵で頑丈に囲われていて、
その周りを少し意識を集中させながらゆっくりと歩いてみると、
ちょうど大杉の真横あたりに来たときにエネルギーが強くなるのを感じました。


私の場合、胸骨というか横隔膜というか心臓というか、
なんか胸の下のあたりがキューっと締めつけられるような感覚があり、
それに伴い少し呼吸が息苦しくなります。

他にもたぶんいろんな感覚を感じていると思いますが、
鞍馬山ではこの感覚がいちばん顕著でわかりやすかったです。


大杉権現の周りを一周し、感覚を研ぎ澄ましながらゆっくりふらふら歩いていると、
少し離れたところにある一本の巨木が私の視界に飛び込んできて、
その木から目が離せなくなってしまいました。

そこは先にも書いたお社へ向かう途中に気になっていた場所で、
吸い寄せられるようにゆっくりと一歩一歩近づいて行きました。

案の定、その辺一帯は周囲に比べてエネルギーが強く、
木に寄り掛かったり、木の根元に座らせてもらったりして、
また少しの間瞑想しました。


その時は知らなかったのですが、
この大杉権現周辺は、「大杉苑瞑想道場」という名前が付いていて、
ここでお経を読んだり瞑想したりする人がたくさんいるそうです。

レイキの臼井氏が断食行をしていたのもこのあたり。

どおりでエネルギーが満ち満ちているはずです。



何度もしつこいかもしれませんが、
これまた不思議なことに私たちが大杉権現の近くにいるとき、
祝日の昼間だというのに誰も他に人が来ることはなく、
完全にその場所の空気に浸ることができました。


十分すぎるほどの時間をそこで過ごし、続いて僧正ガ谷不動堂へ。

下りの階段をしばらく降りて行き、大杉権現から離れて行くにつれて
エネルギーも落ち着いてくるかと思いきや、
階段の終わりが見えるくらいの場所まで来ると、
ふたたび胸が締め付けられるような感覚が強くなってきました。


階段を下まで降りると、そこは僧正ガ谷不動堂。

近づいていくにしたがってさらに締めつけられる感覚は強くなり、
どこがこのエネルギーの発信源なのか、感覚が強くなる方へとゆっくり歩き、
行き着いた先は、不動堂前の地面に敷かれた六芒星の上。

ここ、かなりすごかったです。

苦しくて手で胸を押さえてしまうくらい強烈なエネルギーを発していました。


友達は不動堂正面で手を合わせているとき、
堂内から強烈なエネルギーを感じたと話していました。


地のパワーなのか、堂内に安置されている不動明王のパワーなのかわかりませんが、
不動堂周辺一帯は大杉権現周辺よりもエネルギーが強かったと思います。



そして次はいよいよ奥の院魔王殿。

650年前、金星より降臨した護法魔王尊が奉安されている場所。

今度はどれだけ強いエネルギーを感じることになるのかという期待に反して、
なんともやさしく平和で落ち着けるところでした。


魔王殿から先は木漏れ日の中、ひたすら山を下っていきます。
途中、ねじれてよじれてぐるぐるになってる木や顔のような少し不気味な木など、
いろんな個性的な木に出会いながらやっとこさ貴船神社のある麓まで下りてきました。


貴船神社の境内横のベンチで休憩していたとき、
やっと酔いから醒めて現実感を取り戻したような感じがして、
ついさっきまで歩いてきた鞍馬山がどこか夢の中の出来事のような、
異空間に迷い込んでいたような、そんな不思議な印象でした。



貴船神社の本宮参道入り口では早速巨木がお出迎え。
こうなってくると、巨樹巨木には目がない私たちはなかなか先に進めません。

水神を祀るお社だからか、すぐ横を賀茂川の水源、清流の貴船川が流れているからか、
貴船神社周辺はとてもすがすがしく気持ちの良い空気に満ちていました。

貴船神社には本宮、中宮、奥宮があって高級料亭が立ち並ぶ貴船川沿いを
上流に向かって歩いていきます。

その道中も巨木や珍木が私たちの足を止めました。


そしていよいよ鞍馬、貴船参りのハイライト貴船神社奥宮へ到着。

地味だけど、静かで落ち着きのある神聖な雰囲気。


早速表門をくぐりゆっくり本殿に向かって歩いていると、
なんとまた急にエネルギーが強い領域に入った感覚がありました。


まったく予想外のことで、ここもなの?という感じ。

本殿のあたりではまた少し強くなっているような気がしました。


貴船神社は何の知識もなく行ったのですが
実は本宮は、もともとはこの奥宮の場所にあり、
洪水で流されてしまったために現在の高台に移されたそうです。

そしてさらに、本殿の下には龍穴があって、
その昔、社殿の修復をしていた大工さんが誤って龍穴にノミを落としてしまったところ、
たちまち空に雲が立ち込め竜巻が起こり、
ノミを巻き上げて社殿の屋根に戻したという伝承があるそうです。

ちなみに龍穴というのは、大地の気が吹き上がる場所。


奥宮は、エネルギーが強くて当然の場所ですね。


参拝を終えて表門まで戻る途中、さっきと同じくらいのところで、
エネルギーが強い領域から出たような感じがしました。

一緒にいた友達も同じ場所でそれを感じたそうです。

やはり本殿の下の龍穴がエネルギーの発信源なのかもしれません。



そのあと奥宮からのんびり歩いて、
朝出発した鞍馬駅近くの駐車場に帰ってきたのは夕方の6時。

鞍馬山〜貴船神社を約12時間かけて歩いてきたことになります。
かなりの長時間トリップでした。


鞍馬山と貴船神社は想像していた以上にエネルギーに満ちあふれた場所でした。

この異空間の旅、ぜひ体感してみてはいかがですか?




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ヴィパッサナー瞑想体験 10日間コース@京都

ヴィパッサナーは、ゴータマ・ブッダが悟りに至った瞑想法といわれています。
そのヴィパッサナー瞑想法を普及させるために世界中に瞑想センターがあるそうですが、
日本では日本ヴィパッサナー協会が運営するセンターが京都と千葉にあります。

指導者によってヴィパッサナーも多少やり方が異なる場合があるそうですが、
日本ヴィパッサナー協会はS.N.ゴエンカ氏の指導によります。

私は京都のダンマバーヌという瞑想センターで定期的に開催されている、
ヴィパッサナー瞑想法を実践する10日間の合宿に先月参加してきました。


ヴィパッサナーに関してはブッダが悟りを開いた瞑想法だということは以前から知っていて、
旅の途中で会った人などに「自分の呼吸を意識する」という話を聞いて、
気が向いたときなどに自分で勝手にやったりしていたこともあります。


日本に瞑想センターがあって合宿コースがあるということを最近知り、
最初はたいして興味を持っていなかったのですが、
ある朝ベッドの上でヘミシンクを聴いているときに、
ふと自分のここ数年間のスピリチュアルな事柄に関するいろいろな経験を思い返し、
もしかしたらヴィパッサナーの合宿も何かステップアップするための経験の一つとして、
自分の目の前に今こうしてわかりやすく用意されているのかもしれないと思うに至り、
かなり積極的な気持ちで参加することを決めました。



10日間のコース中、参加者同士で会話をすることや身振りやアイコンタクトなどで
コミュニケーションをとることを禁じられているという話をあらかじめ聞いていて、
コースのことを人から聞くとそこばかりがクローズアップされている印象があったので、
その10日間コミュニケーションをとらないということが精神的に作用することで、
何か心の鍛錬になり、そこにこの合宿の鍵があるのかもしれないと勝手に想像していたのですが、
実際のところはそうすることで集中力を高め、
瞑想中にいろんな雑念が出てくるのを助長させないためという目的があるそうです。

この「聖なる沈黙」は私にとっては少しも苦痛ではなく、
精神的に何かネガティブに働くわけでもなく、瞑想の集中力を高めるという目的以外では、
たいして重要なことではありませんでした。

ただ一度だけ5日目あたりの休憩中に太陽のまわりに虹色の輪が出ていたとき、
それをみんなに教えてあげられないもどかしさを感じたくらいです。


私にとっては何よりも、ヴィパッサナーという瞑想法そのものが
かなり衝撃的なものでした。

全宇宙すべてが波動で成り立っているということに関して、
今でこそ量子論などで証明がされつつあり、
ニューエイジ系の本などを開けばどこにでも書いてあるような内容ですが、
2500年以上前、すでにゴータマ・ブッダはそのことに気が付いていました。

それを踏まえた上でヴィパッサナーがこれほど論理的に考えられ、
悟りまでの道を合理的に導く瞑想法だったとはまったく予想もしていませんでした。


ちなみに、S.N.ゴエンカ氏指導のヴィパッサナー瞑想に興味がある方には、
ぜひこちらの書籍をお勧めします。


ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法


ゴエンカ氏の講話の録音MDを聞く時間がコース中、毎晩あるのですが、
ヴィパッサナーに関する様々な内容の話があり参加者にも大変人気があるそうで、
私も毎晩の講話を聴いていた時間のことはとても印象に残っています。

この書籍はその講話の内容を中心にまとめられているようで、
レビューを見てもわかるようにとてもわかりやすく説明がされているそうです。

私はコース終了後、センターに置いてあったものに少し目を通したくらいなので、
早速購入して読みたいと思っています。


ヴィパッサナー瞑想についての正確で詳細な内容は本を読んでいただくとして、
ここではあくまでも10日間コースに参加して実際に私が体験したことや
感じたことに主眼を置くことにします。


----------- はじめにこちらをお読みください -----------

ヴィパッサナーは身体の感覚を客観的に観察するという瞑想法です。

これから10日間コースに参加する予定のある人は、
捉え方によってはここで読んだ内容が先入観となり
それがかえって瞑想する上で障害になる可能性もあります。

ただ、最後まで通して読んでいただければご理解いただけると思いますが、
重要なのは感覚の種類ではなく、その感覚を“いかに平静な心で観察するか”にある
ということを指導者のゴエンカ氏は仰っています。

感覚の感じ方は人それぞれで、
ここに書いていることはあくまでも私の個人的な体験であることを
あらかじめご理解いただいた上でお読みいただければと思います。


また、ヴィパッサナー瞑想法を学ぶには独学ではなく、
一度10日間コースに参加し、正しい指導を受けることが必要とされています。
---------------------------------------------------------------


さて、10日間コースは毎朝4時に起床し4時半から瞑想開始。
1回の瞑想は長くて1時間半。
途中、数分の短い休憩やちょっと長めの食事休憩などの時間以外、
毎日10時間程度瞑想することになります。

最初の3日間と4日目の午後3時までは、
呼吸を観察する瞑想法アーナパーナをひたすらやり続けます。

私はコース参加以前、この“呼吸を観察する瞑想法”がヴィパッサナーだと思っていましたが、
これはアーナパーナという瞑想法で集中力を高め、心を静めるために行います。
これはヴィパッサナーに入るための準備段階と捉えることもできると思います。

呼吸の観察は私の場合よく睡魔におそわれ、
寝ているのか起きているのかわからない状態もたびたび経験し、
まるで夢でも見ているかのようにいろんな思考やイメージが
ひっきりなしに現れては消えて行きました。

ずっとこの調子では飽きてしまいそうですが、
アーナパーナにも段階があり回を重ねるごとに、日を追うごとに
指示に従って観察するポイントが変わっていきます。


観察の内容が変わってから集中力が増してきたのか、
次第に眠気におそわれることも少なくなり、
いろんな思考やイメージの明滅も減っていきました。


私は呼吸による空気の流れを鼻の中の奥の方でしばらく観察しているときに、
目頭の近くの鼻の付け根の骨のあたりに
いつから生じているのかわからない違和感があることに気付いたのですが、
その後観察の内容が変わってもその違和感は常に現れていました。

その感覚を言葉にするなら、圧迫感のようでもあるし
逆に上の方に引っ張られる感覚のようでもあります。

かすかに感じるという種類のものではなく、
感覚に意識を集中すればするほどその感覚は強くなり、
ものすごい強い力で鼻の骨のあたりを上の方に引っ張られている感じで、
次第に痛みも伴ってくるほどでした。


そして最終的にはそれと同様の感覚が
鼻の穴の下から上唇の上という狭い範囲にも感じるようになりました。



コース4日目の午後3時にいよいよヴィパッサナーの指導が開始され、
この時だけ3時から5時まで休憩なしで説明を聞きながら瞑想をしました。


10日間を通して、ゴエンカ氏の指導のあとに女性の方が日本語に通訳するという
録音MDを聞きながら瞑想する形式になっていて、
毎回その内容によってMDを聞く時間が短かったり長かったりします。

瞑想法の新しい指示が出されるときなどは通常より時間が長くなるのですが、
ヴィパッサナー開始のこの2時間は終始MDを聞きながらの瞑想だったと思います。

なぜこんなこといちいち細かく書くかというと、
私はこの通訳の女性の訳し方というか言葉の選び方と話の間の取り方、
そして何よりも気高さとやさしさをあわせ持つ女神のような声が好きで、
瞑想しながら聞いていると本当に心の奥のほうまで染み入るような感じがするのです。


通訳の女性の言葉や話し方、声などの影響や
瞑想に集中していて心が敏感になっていたという理由もあると思いますが、
説明を聞きながら瞑想するこの2時間の中で、
私はヴィパッサナーという瞑想法に出会えたことに感動し涙を流しました。
なんか本当に入り込んでいたという感じだったのだと思います。



さて、ヴィパッサナーは最初に頭のてっぺんに意識を合わせます。

実のところ私は後頭部から頭のてっぺんにかけて上に引っ張られるような感覚を
このコースに参加するずっと以前から持っていて、
それに加えて今回鼻の骨のあたりと鼻の下にも同じような感覚を感じるようになり、
アーナパーナからヴィパッサナーに移行し、
鼻から頭のてっぺんに意識を移した瞬間それらの感覚が合体し、
そのまま身体が浮いてしまうんじゃないかと思えるくらい
非常に強く上に引っ張られる感覚に圧倒されていました。

ヴィパッサナーは身体の感覚を客観的に観察するという瞑想法で、
たとえどんな感覚があったとしても常に心は完ぺきな平静さを保ち続けることが
何よりも重要だということです。


私は身体のある一部分を感じるというワークのようなことを
実は以前から時々やっていたことがあって、私の場合特に手と足が感じやすいのですが、
意識を置くとしびれるようなざわざわするような感覚を感じることができ、
そして手から腕全体にかけて、足から脚全体にかけて意識を移動させて行くと
それに合わせてそのしびれるようなざわざわした感覚も一緒についてくるという感覚を
もともと感じることができていました。


ここからちょっと余談です。

これは意識の移動に合わせて身体の中を
エネルギーが流れているのだと私は勝手に解釈していたのですが、
アシスタントティーチャーの話では、
通常の顕在意識では感じ取ることができていないだけで、
潜在意識レベルでは身体中に何かしらの感覚、
究極は身体を構成する波動の粒子の振動までをも常に感じ取っているらしく、
身体のある部分に集中して少し洗練された意識を置くことで
その一部の感覚を感じ取っているという仕組みらしいです。

つまり、意識の移動に合わせて身体の中を何かが動いているのではなく、
意識を移動させて行くことでその場所その場所でもともとある感覚を感じ取って行くために
まるで何かが移動しているような錯覚をしてしまうということなんだと思います。

ちなみにヴィパッサナーは、心の平静さと意識の集中が完ぺきなものになっていくと
身体を構成する粒子の振動をはっきりと身体全体に感じている状態になるそうです。

ただ、このような感覚の分析はヴィパッサナーをする上では少しも重要なことではなく、
何の意味も成さないそうですが、私個人的にはとても興味のあることだし、
私以外にも興味のある人はたくさんいると思うので一応書いてみました。



というわけで、コース4日目にヴィパッサナーを開始した段階では、
ざっくりではありますが手と腕全体、足と脚全体は
わりとスムーズに流れるような意識の移動と感覚の観察ができたのですが、
それ以外の場所はほとんど何も感じることができず、地道な観察がしばらく続きました。

何も感じることができない部分に意識を合わせるということを
毎回毎回繰り返すのは精神的にとてもこたえる作業でした。

次第に集中力も持たなくなり再びどうでもよい思考やイメージに
意識を持っていかれることもしばしばありました。

私はただ服が触れているというような感覚では満足できず
何かしら新しい感覚を感じることを求めてしまっていました。
腕と脚が最初からスムーズに出来たのでなおさらです。



しかし、身体の感覚を観察する上で最も大切なことは
“常に完ぺきな平静さを保つこと”


それはなにも感覚を感じない場合も同じです。


感覚そのものに何か価値があるわけではなく、大事なのはどんな状況であっても
“常に完ぺきな平静さを保つこと”


ゴエンカ氏は事あるごとにこれを強調していました。


感覚を渇望することなく
感覚に執着することなく
感覚を嫌悪することなく
常に完ぺきな平静さの中で自分の身体を観察していくのです。


自分の身体の感覚を使って苦悩の原因である渇望、執着、嫌悪などの
サンカーラ(心の反応、反発する部分)を潜在意識の奥深くから浄化していく。
これがヴィパッサナーです。


ヴィパッサナーをやっていて時に精神的にしんどくなってしまうことがあるのは、
感覚を渇望し、執着しているために苦悩を生んでいることが原因であることはわかっていたので、
私は意を決して渇望と執着を捨て、何も感覚を感じない部分でも
ひたすらに平静な心で意識を集中し、ただ観察することに専念しました。

すると時折生じていた焦りや苛立ち、失望感といった精神的なしんどさもなくなり、
腹が据わったというか、わりとリラックスして瞑想を続けられるようになってきました。

それが良かったのか、今まで感覚をほとんど感じなかった部分にも
新たな感覚が出始めました。


それは筋肉が硬直しているような部分もあれば、
まるで電気で刺激したように筋肉がビクビクと動くといった
決して心地よいと言える感覚ではありませんでした。

最初は意識を置いている間このような感覚が現れましたが、
そのうち意識を別のところに移動させても筋肉がビクビク動くことがしばしばありました。

肩から背中の肩甲骨のあたりにかけては意識を置く置かないに関係なく、
気がつくと筋肉が硬直していて痛みもありました。


アシスタントティーチャーにこれに関して質問すると、、

どんな感覚であっても感覚は感覚。
感覚を分析する必要はないけど、もしかしたら浄化の過程で
古いサンカーラが肉体的な感覚となって出てきているのかもしれない。

ということでした。


コースに参加したことのない人には
これだけでは何を言っているのかよくわからないと思うので、
補足として以下も参照ください。


コース中、ゴエンカ氏による録音MDの中で
ヴィパッサナーに関してこんな説明もありました。

人間には感覚があってその感覚に心が反応し、反発をすることが
苦悩の原因であることにゴータマ・ブッダは気がついた。
だから感覚をただ平静な心で観察することで新たな苦悩を生むことがなくなる。
しかし過去に生み続けてきた潜在意識に押し込められている古いサンカーラがあるうちは、
それが引き金となって新たなサンカーラを誘発しまた苦悩を生んでしまいかねないので
苦悩をなくすためには潜在意識に押し込められている古いサンカーラも
完全に根絶やしにする必要がある。
そのためには、渇望や嫌悪や執着といった新たなサンカーラが出てきたとき、
それは潜在意識に押し込められた同じ種類の古いサンカーラとも結びついているので、
それを平静な心で観察した時にその古いサンカーラも少し浄化される。
また、心や潜在意識の状態というのは何らかの肉体的な感覚として常に現れているので、
その感覚を完ぺきな平静さで観察することで古いサンカーラを浄化することができる。

※サンカーラ=心の反応、反発する部分


記憶を頼りに書いたのでもしかしたら間違っている部分もあるかもしれませんが、
ざっとまとめてみるとこんな感じだったと思います。



筋肉の硬直には鈍く重い痛みが伴っていたし、
ビクビク動くのもどちらかと言えば不快な感覚でしたが、
古いサンカーラが浄化されているということも考えられるし、
その上今まで何の感覚も感じられなかった部分だっただけに、
何かしらの感覚があるということに正直嬉しさもありました。

しかし、そこは平静な心でその感覚をただ観察することに努めました。


すべての感覚に共通の性質。
それは現れては消えていくということ。

アニッチャ アニッチャ アニッチャ


ゴエンカ氏がこう話すように、
筋肉の硬直や痙攣のような感覚もいつの間にかなくなり、
ふたたびまた何の感覚も感じなくなりました。



そしてたぶん9日目くらいだったと思うのですが、
感覚の感じ方についてまた新しい指示が出されました。

このやり方が私に合っていたのか、
それまで手から肩、足先から脚の付け根、顔といった部分にしかなかった
粒子のような均一で微妙な感覚が、急にほかの部分にも現れ始めました。

それ以来、身体のだいたいの部分で感覚を感じ取りやすくなり、
その感覚もたぶんゴエンカ氏の言う粒子のような均一で微妙な感覚と
同様のものだったと思います。

私の場合身体の多くの部分でこの均一で微妙な感覚が続いたときは、
不思議なことに長時間座っていても疲れや脚の痛みなどをまったく感じることがなく、
一回の瞑想(1時間〜1時間半)の間、あぐらを組んでる脚を少しも動かさなくても
何の苦痛も感じませんでした。



そして10日目、コース最終日。
10日目の午前中はヴィパッサナーではなく
メッター・バーヴァナーという愛と慈しみの瞑想を行い、
それを終えて朝9時半を過ぎると「聖なる沈黙」が解かれます。

9日間静けさに包まれていたセンターが参加者の話し声で一気に騒がしくなりました。

私は頭があまり働かないというかボーっとした状態が続いていましたが、
何か話さなければいけないような気がしてきてしまって、
心ここにあらずという感じの中、少しの間何人かの人と9日ぶりの会話を楽しみました。


この日の日程は、午後にグループ瞑想とゴエンカ氏のビデオを見る時間があり、
夕方にまたグループ瞑想をした後に講話の時間という感じで、
あとの空いている時間はすべて自由時間でした。


昼食の間も、そして午後になっても参加者の話し声はやむことなく、
常時開放されていた食堂の中は会話で満たされていました。

私もその中にいたのですが、一時誰とも会話をしていないタイミングがあり、
食堂に置いてあるヴィパッサナー関連の資料などを一人で読んでいました。

すると間もなく、次第に周りの人たちの声が雑音に感じ始め、
やがて騒音の中に自分がいるような感覚になり、
それとともに自分の心の中が苛立ち始めていることに気がつきました。

同時にその状況に上手く順応できない自分と周りとのギャップを心のどこかで感じ、
悲しさや淋しさといった感情も入り混じり、とても複雑な心境になってきました。

私はいてもたってもいられなくなりすぐに食堂から出て、
グループ瞑想までにはまだ結構時間がありましたが、瞑想ホールに行き瞑想をしました。


あとから思えばあの時の状況は、
その時の私にはまだ刺激が強すぎたのだと思います。



そんなことがありながらも、実は私にとってはその日の夜の瞑想が、
10日間のうちでいちばん良い状態で、
身体のほとんどの部分に均一で微妙な感覚を感じることができ、
それを平静な心で観察しました。


まだまだ話し足りない人たちのためにこの日は夜の10時まで食堂が解放され、
私の部屋でも半分以上の人が部屋にいませんでしたが、
私は講話の時間が終わるとすぐに布団にもぐり込みました。

そしてこの日の夜、布団の中で私はとても不思議な体験をしたのです。


ヴィパッサナーをはじめてから何日か過ぎたころから、
私は布団に入ってから寝入るまで、ルールを決めずに自由に身体の感覚を楽しんでいたのですが、
とてもリラックスしているせいか瞑想中よりも敏感に感じ取ることができ、
特に私は腕と脚が感じやすくいつもしびれるようなざわざわした感覚の中で
眠りについていました。

時には朝目覚めたときもその感覚が持続している日もありました。


こんな感じで最終日の夜も自由に身体の感覚を楽しんでいました。
そして間もなく意識も遠くなり、もう半分寝かかっていて
ぼんやりと変な夢を見始めたくらいの時だったと思います。

身体全体が、結構強めの炭酸みたいな感じで
シュワシュワした感覚に包まれていることに急に気が付きました。
すると次の瞬間、身体の重みがなくなっていくというか
身体全体が上に引っ張られていくような感覚があり、
最初に背中と脚が地面を離れはじめ、
最後にいちばん重かった腰のあたりにも重さを感じなくなり、
身体全体が完全にまるでふわっと宙に浮いたような感じがしたのです。

その時私の頭には、どんな感覚も平静な心で観察するという意識が働いていたのですが、
あまりに強烈な状況に恐怖感を抱いてしまいました。

恐怖感が心に芽生えるや否や、身体はすぐに重みを取り戻し地面に引き寄せられました。


実はこの直前に見ていた夢がまた変わっていて、
自分の身体の波動の振動数が上がってしまっている状態で、
ドアの向こう側に行きたいのだけど、
ドアを開けるときに自分の手がドアノブをすりぬけないで
しっかり握ることができるかを心配しているという夢でした。


そのあともまた同じような状態を求めて、
しばらく身体の感覚に意識を集中していましたがなかなか思うようにはいかず、
感覚に執着している自分に気づき、素直に寝ました。

実際に肉体が浮いていたのか、それとも幽体離脱のようなものだったのか
目を開けていたわけではないのでわかりませんが、
唯一確かなことは、宙に浮いたような感覚は確実に感じていたということです。



この翌日の朝いよいよ10日間のコースが終わり参加者は再び俗世間に戻っていくわけですが、
次のコースが始まるまでの数日間、奉仕をしながらセンターに残ることもできます。

私は最後の夜の瞑想がいちばん良い状態だったということもあり、
おまけに布団の中での不思議な体験もあったので、
もう少しセンターで瞑想を続けたいと思い、奉仕をしながら残ることにしました。

その期間も1日3回のグループ瞑想は継続されます。


私が参加していたコース中に奉仕で参加していた人たちとも知り合うことができて、
いろいろ話を聞くことができましたが、ほとんどの人がヘビーリピーター、
つまりコースに古い生徒として参加したり、今度は奉仕としてコースに参加したりを
何度も繰り返している人たちでした。


私はほんの数日間でしたが、庭の手入れをしたり布団に掃除機をかけたり、
次のコースのための布団のセッティングをしたりという作業をさせてもらいました。

この期間は人も少なく静かで、
センターはコース中とはまたぜんぜん違う雰囲気でした。


そんな中で1日3回のグループ瞑想。


食事も菜食は同じだけど1日3食、普通にお腹いっぱい食べるし、
毎日会話も普通にしているので、正直な話、
瞑想の内容としてはコース中ほど良い状態とはいえませんでしたが、
また違った空気の中での瞑想はある意味新鮮でした。

そして、この期間残ったから知り合えた人や知ることができたこともあったし、
またこの期間残ったからセンターを出たあとの予定なども変わったので、
瞑想も含めいろんな面で私にとって必要な数日間だったのだと思います。



・・・かなり長くなってしまいましたが、
これがダンマバーヌ、ヴィパッサナー瞑想センターで
10日+数日の間に私が体験したことです。

心が求めることがあるなら、今度は古い生徒として
あるいは奉仕する側としてコースに参加することもあるかもしれません。


Be happy!



日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/index.php?L=12


ヴィパッサナー瞑想参考書籍
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法



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