山下良道さんが主催する鎌倉一法庵の5日間の接心に
6月、7月、そしてつい先日の9月と3回参加させていただきました。
一法庵の接心で良道さんのお話や参加者との質疑応答などを聞き、瞑想をするなかで、
自分の瞑想が今どのような状態なのか、実際のところ瞑想とは何なのか、といったことが
自分なりにある程度つかめてきた感じがしています。
それについて書く前に、まず私が一法庵の接心に参加することになった経緯から。
私が瞑想をはじめたのは2年半ほど前、
ゴエンカさんのヴィパッサナー瞑想コースにはじめて参加したのがきっかけです。
(参照記事:
ヴィパッサナー瞑想体験 10日間コース@京都)
その後は期間が空きましたが、今年(2012年)の年越しのコースから5月までの間に
生徒で3回、サーブで3回と集中して10日間コースに参加してきました。
(参照記事:
ヴィパッサナー瞑想 奉仕と生徒の1ヶ月@千葉)
(参照記事:
ヴィパッサナー奉仕(サーブ)の魅力)
その甲斐あってそれなりに集中力もつき、
自分なりにそこそこ満足できる瞑想ができている時間も増えてきました。
ところが、5月に京都で参加した生徒として4回目のコースで私は、
ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想にちょっとした行き詰まりを感じてしまったのです。
そのコースでは個人的に、思考やイメージを徹底的に排除すること、微細な感覚の探求、
感覚を感じたらすぐに意識を動かすことに専念していました。
私の経験では体の感覚は、凝固感や圧迫感、痛み、かゆみなどの荒削りなわかりやすい感覚の場合、
思考やイメージが出てきていても気づいていることができますが、
微細な感覚になればなるほど本当に心が静かな状態で、より客観的に観察しないと
なかなか感じとることができません。
すでにそこにある微細な感覚を心を静めて感じとる様子は、
例えて言うなら、息を凝らして耳を澄ましてやっと聞きとることができる、
どこからか聞こえるとても小さな音を聞きとるような感じに似ています。
その時のコースで私は、思考にもイメージにも眠気にも邪魔されず、切り裂くような集中力で
1時間のほとんどの時間を静寂に包まれた完全に平静な状態でいることがしばしばありました。
しかしある時、しばらくの間微細な感覚の上をすべるように快適に意識を動かせていた場所が、
いつの間にか意識の移動がそれまでのようにスムーズにいかなくなっていて、
うまく行っていた時のことを思い出しながら
なんとか意識をスムーズに動かそうとしている自分に気がつきました。
そして同時に、雑念が現れることもなく完全に平静な状態だと思っていた心の中に
いつの間にか渇望と執着と嫌悪がすでに幅をきかせていることに気づいたのです。
意識をスムーズに動かせなくなっていたのは、
その場所に凝固した感覚が現れてきていたからだったのですが、
そのことにしばらく気が付かず、記憶に残るすべるような意識の移動に執着し、
それを渇望し、意識をスムーズに動かせないことを嫌悪し、ストレスを感じていました。
私はこのとき、あることを悟りました。
それは、常に完璧な平静さで感覚を繰り返し観察し続けるというのは
もしかしたら不可能に近いのではないか、ということです。
完全に平静であるためには、完全に感覚がアニッチャであることを理解し、
何度同じ場所を観察しても毎回その場所をはじめて観察するつもりで、
さらにその感覚に対して何の心の反応も起こさないことが必要です。
電子顕微鏡の最高倍率でのぞくくらい厳しく、そしてくまなく丁寧に心の状態を見るなら、
前回その場所を観察したときの記憶がある以上、同じ場所を再度観察したとき、
気づかないレベルでは渇望や執着や嫌悪のいずれか、
場合によってはすべての感情が生まれてしまっているような気がしたのです。
この“気づかないレベルで”というところが非常にやっかいです。
ゴエンカさんは、感覚を完璧な平静さで観察することで浄化が起こると言っている一方で、
渇望や執着や嫌悪の心で感覚を観察する場合、
浄化どころか逆にサンカーラを増やすとも言っています。
私の経験では、渇望や執着や嫌悪はかなり巧妙で、まるでパンに生えるカビのように
いつの間にか心の中に芽生えていることが多々あります。
それがどういうことかというと、つまり浄化していると思ってやっていた瞑想でも、
気がつかないうちにサンカーラを増やしている場合があるということになるのです。
さて、ちょっと長くなりましたが、聖なる沈黙が解けた10日目の夜に
上に書いたような話を瞑想ホールで席がとなりで、同室でもあったKくんと話していたとき、
山下良道さんと一法庵の接心を紹介してくれたのです。
ゴエンカ式では他の瞑想をすることを認められていないし、
私はゴエンカ式のヴィパッサナーにどっぷり漬かって慣れ親しんでいたので、
興味を持ちながらも違う瞑想法をすることに少なからず抵抗がありました。
しかし、ちょうど行き詰まりを感じたこのコースが終わる日に
隣席で同室だったKくんに紹介されるといういかにも仕組まれたようなお手配、
私が関東方面に戻ろうとぼんやりと思っていた時期と6月の一法庵の接心が
ちょうど同じくらいのタイミングだったこと。
他にも私の足を一法庵に向けさせるサインがいくつかあり、
結果的にごく自然な流れで鎌倉一法庵の6月の接心に導かれたというわけです。
良道さんが言葉を変えながらも一貫して言っているのが、thinking mind からの解放、
そして青空を体験すること。
青空は、慈悲の部屋、空なる部屋、第3の部屋などいろいろ別の言い方がありますが、
すべて同じ場所(同じ意識状態)のことを指しています。
thinking mind からの解放は、要するに過去や未来に意識が飛ばされることがなく、
「今」に気づいていて、思考やイメージと同一化していない、曇りなき心の状態のことです。
接心最初の2日くらいはゴエンカ式のヴィパッサナーが頭から離れず、
良道さんの話や瞑想法とどうしても比較してしまい、葛藤や混乱で心がスッキリしませんでしたが、
ゴエンカ式をひとまず忘れ、まったく別の瞑想法をやっていると考えることにしました。
気持ちを切り替えて瞑想に集中できるようになると間もなく、
私は、自分の心が thinking mind から解放されていることを自覚したのですが、
実はゴエンカさんのところですでにその状態は経験していたことを思い出しました。
ゴエンカさんの10日間コースの最初の3日間のアーナパーナのとき、
思考やイメージ、眠気を排除するという作業を意を決して徹底的にストイックにやったときに、
とてもクリアな、完全に静寂に包まれた、安らぎに満ちた心の状態を
短時間ではあったけど経験し、自覚したことがありました。
ただ、ヴィパッサナーでは、とても集中して体の感覚を観察しているとき、
特に微細な感覚を観察している時などは先にも書いたように長時間にわたって、
思考もイメージもわき上がってこない静がな心の状態でいることが出来てはいたのですが、
そこでやることは、心が平静かどうかのチェックと
体の感覚を頭からつま先まで順番にひたすら観察し続けるという2点に尽きるので、
thinking mind から解放された状態の心をあえて意識したことがありませんでした。
なので一法庵の接心ではじめてまじまじとそこにフォーカスした時、
最初は thinking mind が落ちた世界をはじめて体験したように錯覚しましたが、
思い返せばただそこにフォーカスしたことがなかっただけで
実は私にとっては以前から経験し、知っていた世界だったのです。
ゴエンカ式ヴィパッサナーをやっている人の中には
すでに thinking mind から解放された状態で体の感覚を観察している人はたくさんいると思います。
しかし、ただそれを「平静さ」としてしか認識せず、
その状態にありながらも、ただひたすらに体の感覚の観察のみに徹するというのは、
非常にもったいないような気がしてしまいます。
平静な状態、つまり thinking mind から解放された心の状態、あるいは近い状態にあるとき、
これは私の個人的な好みの問題かもしれませんが、耳から聞こえてくる音、
とくに虫の鳴き声や鳥の声、風や雨の音など自然界の音に意識をフォーカスすると
集中した状態を維持しやすくなり、「今」にあり続けることが比較的容易になるように感じます。
また、thinking mind から解放された心の状態が
仏教で言うところの「空」だと良道さんは仰っていますが、
私の場合、特に意識を可能なかぎり五感すべてにフォーカスして「今」にあり続ける瞑想をしていると
たしかに「空」という言葉がぴったりくることが実感できます。
思考やイメージが止まっている意識は、何もなく空っぽです。
その何もなくどこまでも広がるとても静かな空っぽの意識の中に、
ただ五感によって立ち現われてくる感受のみがあるのです。
ただ虫の鳴き声があり、ただ鳥のさえずりがあり、ただ呼吸があり、ただ体の感覚がある。
目を開ければただ目の前に色と形、光と影がある。それらはただ起こっているのです。
自分だと思っていたものは幻想で実は何もなく、
自分とは感受そのものなんだということが実感できた瞬間がありました。
これらのことは、ゴエンカ式ヴィパッサナーに忠実に、
ただひたすらに体の感覚のみに意識をフォーカスしていたときは気がつかなかったことです。
こう書くと、人によってはゴエンカ式を批判しているように感じる人もいるかもしれませんが、
もちろん私はそんなつもりはなく、あくまでも中立的な立場で、
自分が経験し感じたことを忠実に書いているだけです。
さて、私の経験では、thinking mind から解放された世界にも
微妙に心の状態に差があるような気がしているのですが、それを書き出してみます。
1.思考やイメージは現れていないけど監視が必要で、思考したがっている意識を強引に押さえつけているようなどこか不安定な状態。(厳密にはこれは thinking mind から解放されているとは言えないと思う)
2.意識がとてもクリアで明晰。思考やイメージが現れてくる気配がなく監視する必要がないとても安定した状態。
3.意識がとてもクリアで明晰。思考やイメージが現れてくる気配がなく監視する必要がないとても安定した状態で、さらに喜びと安らぎと充実感に満たされている。
はじめての一法庵の接心で、thinking mind から解放された状態であることを自覚したとき、
私は2や3の状態だったのですが、ここで一つ問題だったのは、
良道さんが「慈悲の部屋」と表現をされる場所にいるはずなのに
その肝心の慈悲を感じることができないでいたのです。
その時の良道さんの説明では、thinking mind が落ちた世界=慈悲の部屋、
つまり、thinking mind が落ちれば慈悲は自然と出てくるということでした。
しかし私の場合、thinking mind が落ちていることは完全に自覚しているのに、
ただ慈悲だけがないという状態だったので、自分のいる場所がどこなのか混乱しました。
なぜ慈悲を感じられないのか、thinking mind から解放されたクリアな意識の状態で
心の中を丁寧に観察してみたところ、正体不明のどこかスッキリとしない
ネガティブな感情が残っていることに気づきました。
そのネガティブな感情が本来出てくるはずの慈悲にふたをしてしまっているような気がして、
その感情が何によって引き起こされているのか丁寧に探索してみたところ、
いわゆるペインボディ、自分で自分を攻撃している部分、自分の受け入れられない部分、
自分を愛せていない部分だったことがわかりました。
私はその意識できたペインボディを認めて、無条件で受け入れ、
その部分を慰めるというか、そこに愛を、慈悲を与えてみようと試みると、
まるで油田を掘り当てたかのように、胸の奥のどこかから愛が、慈悲がとめどなく湧き出てきたのです。
そして、自分がその慈悲によって癒され、ネガティブな感情がなくなると、
他人への慈悲もごく自然とあふれ出てきました。
この経験からわかったことは、慈悲とネガティブな感情は共存できないということです。
心にネガティブな感情が少しでもあるときは慈悲は出てこないし、
逆に、心が慈悲で満たされているときはたとえネガティブな感情を故意に起こそうとしてもできません。
思考やイメージから解放されて「今」に気づいているのに、慈悲がピンとこないときは、
心にネガティブな感情がないか丁寧に観察してみることも一つの解決策のようです。
いろいろと書きましたが、最後にもう一つ。
thinking mind から解放されたクリアな意識の状態、
いわゆる「空」や「慈悲の部屋」に入ってからが本当の瞑想だと良道さんはおっしゃっていますが、
私もこれまで書いたような経験を通してそれを実感しています。
逆を言うと、目を閉じて黙って静かに座っていても、
思考やイメージ、眠気に支配されているならばそれは瞑想とは言えないのだと思います。
瞑想中は今にあるので、本当の意味で瞑想ができている時間が増えれば、今にある時間が増えます。
今にあるときはエゴの影響の外にいるので、エゴにエサを与えることはなく、
瞑想をして今にある時間が増えることで、自然とエゴの力が弱くなっていくのです。
これが瞑想の一つの効果だと私は思っています。